さよなら、ITパーク
去年1年間の台湾アートに関する出来事の中で、個人的にしんみり寂しかったのが、ITパークというギャラリーの完全閉廊=フィジカルスペースがとうとうなくなったことだった。
ここ数年はほとんどイヴェントもなかったので全く足を踏み入れていなかったし、再生のために尽くしたわけでもないから、運営メンバーからしてみれば、私のこんなセンチメンタルなテキストは苦笑モノかもしれない。でも、ここは私が台湾に来るきっかけになったギャラリーだったし、子どもを授かった年に一年だけの広報スタッフとして働いた古巣でもあるし、寂しいものは寂しい。もちろん、下の世代から見ると遠く感じたりもするだろうし、ITパークが台北アートシーンの全てであったわけではない。でも、やっぱり強い魅力があったし、ああ、ひとつの時代が本当に終わったんだなぁと感じる。
というわけで、今日は個人的振り返り文をしたためてみたい。
header photo: 吳瑪悧 《伊通小甜心》2004 (部分, from 國家文藝獎官網)
(20世紀の著名人の幼少時代の肖像写真を集めた「スウィーティーズ」シリーズのスピンオフとして、バーがあった頃のITパークを舞台に、子ども時代のメンバーたちをコラージュした作品)
一番右の利発そうな女の子はマーリーさん。左から2番目のサングラス白タイツのぷくぷくした子どもはユェン・グァンミン。
ITパーク/伊通公園とは?
台湾で、美術館でもギャラリーでもない、いわゆるオルタナティブ・スペース的空間が出来始めたのは1980年代半ばのこととされる。そのうちのひとつが、去年台北市立美術館で回顧展が行われた女性アーティスト、ライ・チュンチュン(賴純純)らが設立した台北の「SOCA現代藝術工作室」だった。
ITパークは、このSOCAで活動していたスペイン帰りのジュアン・プー(莊普)、前にも書いたチェン・ホェチャオ(陳慧嶠)(通称チャオ)、後にET@T Lab(在地實驗)を立ち上げたりデジタルアートセンターのディレクターを務めたりしたホァン・ウェンハオ(黃文浩)の3人のアーティストと、階下で同時にフォトスタジオの経営を始めた写真家リウ・チンタン(劉慶堂)の4人が立ち上げた。
1988年、松江路と南京東路近くの街の食堂の2階と3階と屋上に誕生したこのアートスペースは、目と鼻の先にある小さな公園伊通公園(イートンゴンユェン)からそのまま伊通公園(画廊)と名付けられ、台湾の人たちからは伊通(イートン)と呼ばれた。というわけで、ここからは慣れ親しんだ伊通と書く。
当時、伊通で定期的に展示をして、現在国際的に活躍しているアーティストは少なくない。家人ユェン・グァンミンもその一人だし、日本でも知られているアーティストを中心に挙げてみると、ワン・ジュンジエ(王俊傑)、マイケル・リン(林明弘)、故チェン・シュンジュー(陳順築)、ワン・テユ(ドーユー)(王德瑜)、ヤオ・ルィヅォン(姚瑞中)、ポン・ホンジィ(彭弘智)、ツェ・グァンユー(崔廣宇)、ライ・ヅーシェン(賴志盛)、リャオ・ジェンヅォン(廖建忠)、ウー・ジーツォン(吳季璁)、チェン・ジンユェン(陳敬元)、ホウ・イーティン(侯怡亭)、アジ・チェン(陳怡潔)、ジョイス・ホー(何采柔)、ラグジュアリー・ロジコ…… まだまだ書ききれないほどたくさんいる。そういえば、チェン・ジエレン(陳界仁)が初めて労働者をテーマに制作した《加工工場》もここでの発表が最初だったし、ウ・ティエンチャン(呉天章)も個展を開催したことがある。
伊通のことは、オルタナティブ・スペース、あるいはアーティスト・ラン・スペースという形態から、非営利と思っていた人も多いかもしれない。実際は、公的な助成を得る一方、運営の継続のために作品売買もしていた。立ち上げ当時は、リウさんのフォトスタジオの収入を元手に運営していたらしいのだが、だんだんフィルムでのスタジオ撮影が時代遅れになると、その経営モデルが立ち行かなくなり、毎月の家賃が払えなくなっていき、リウさんがしょっちゅう借金をしては作品の売上金で返し、借金をしては返し、ということを繰り返していたのを私もよく覚えている。
それでも彼らは、売り絵路線に走ることはなく、アーティストの自発性に任せた作品発表の場であろうとするものだから、経営状態はいつも火の車だった。それでも、伊通という場の持つエネルギーは多くの人を惹きつけ、オープニングには多くの人が訪れたし、海外からのキュレーターや美術関係者が、台北市立美術館の次に訪れる場所として長く知られていた。また、アート関係者だけでなく、ファッションデザイナーや建築家、小説家、詩人、音楽家、映画関係者など、さまざまなジャンルの有名人にばったり出会うことも珍しくなかった。そういう人が現れても、特にもてはやすこともなく自然体なのも、伊通の魅力だったと思う。
伊通に呼ばれるように台北に来た私
私個人の伊通との出会いは、90年代の京都で美学芸術学を学ぶ大学院生だった頃、「アジア」のアートに関わりたいという熱意だけで定期購読していたAsian ArtNews の台湾特集でだった。その記事を何度も何度も読み返しつつ、ここのアーティストたちの作品はなんて面白そうなんだろうと憧れを持ち、いつか訪れたいと願った。そして1997年のゴールデンウィークに同期の台湾人留学生のYさんに誘われて2泊3日で台北を訪れた際、遂にその願いは叶えられることになる。
親切なYさんの家族に送ってもらって伊通に辿り着くと、残念ながら展示替え中。それでもメンバーたちは日本から来た名もない大学院生を歓迎してくれて、バルコニーに座って赤ワインを注文して一杯飲んだ。スペイン風の白い漆喰のベンチが素敵で、またここに来たい、いや、絶対戻って来る!と心に誓った。
この旅の3日間、台北はずっと雨続きで、生まれて初めて「生温かい土砂降り」を体験。雨に濡れた緑が町中でキラキラして美しかったのをよく覚えている。当時MRTもほとんど開通しておらず、移動の足はスケジュールもおぼつかないバス、大量のスクーター、ローカルな食堂の匂い、街の看板、凸凹の歩道、全てが新鮮で、勝手にワクワクしたものだ。

そんな剥き出しの生気あふれる台北で、伊通には、周りの下町っぽい環境に挑むような(実際には普通に同居していたのだが、当時の私にはそう見えた)垢抜けた世界があり、何か新しいことをしたい人がどんどん集まってくる感じがビリビリ伝わってきていた。ここでは、アメリカから帰ってきたばかりのマイケル・リンがバーテンダーをしていた時代もあったのだ。バーがなくなってからも、週末ともなれば、誰かが遅くまで語り明かしている、伊通はそんな場所だった。
人生の節目節目に伊通があった
私はここで、数回のライフイヴェントを経験した。1回目は2004年の自分の結婚式披露宴の二次会。新郎が先に酔い潰れたので代わりに飲むはめになり、全く記憶にないが多分すぐに潰れて、ベンチで寝ていた。朝の光の中で次第に意識を取り戻した私を、ジュアン・プーの底抜けに優しい笑顔が覗き込んでいて、あちゃーと思ったのを、今も昨日のことのように覚えている。
次は、家人ユェン・グァンミンの、ここで行った最後の個展(その後はより広いスペースを求め、TKG+へ発表の場を移した)のオープニング。なんとメイン作品の3チャンネルビデオ《消えゆく風景ー経過 I》の調整がうまく行かず、何百人もいる(は大袈裟かもだが、百人は絶対いたと思う)お客さんを待たせて、アシスタントの学生たちが地べたに座ってキーボードを叩き続けた。ついに完成してお披露目となった時、満場の拍手が起こったのを覚えている。恥ずかしさと感動の入り混じった一夜だった。ちなみにこの作品には義父と私が初登場しており、義父も後で見に来てくれた。
最後は、私が一年契約で働いていた時のこと。途中で、家人のスコットランドの田舎町でのアーティスト・イン・レジデンスに最初の2週間だけ同行して、この時やっと望んでいた子どもを孕ったのだけど、親友の住むフランス経由でひと足さきに帰台して出勤すると、ディレクターのチャオがじろっと私を見て「澪、妊娠してるやろ?」と言ってくる。その時私は、自分が妊娠していることをまだ知らなかった。「してないよー」「してる!検査してみ!」帰り道薬局で検査薬を買って、帰宅してトイレ直行で、二本線、!!!!。
……チャオというのは、出入りのアート関係者数十人の星座チャートを持っていたり、生粋の魔女なのだ。あの一年、妊娠して居眠りしている場合じゃなかった。弟子入りして魔女修行するべきだった、と今更ながら思う。
このほか、私の前ブログ Taipei Croquis の大家さんだったパリ在住アーティスト細木由範さんと、今は大手外資系企業にお勤めの国際自由文化人(今勝手にでっち上げた肩書きだけど、長らくどうやって暮らしているのか謎だった)澤文也さん共同キュレーションでの room air というグループ展の開幕前後がちょうどSARS流行期で大変だったことなど、思い出は尽きない。

ありがとう伊通
懐かしい伊通。マキネッタで淹れるコーヒーの匂い。リウさんが夜遅くなるとさっと作ってくれるご馳走の数々。リウさんの家族が焼く特大の重たいアルチザン・ブレッド。屋上に上がる急な階段。いつもピカピカに磨かれていた大きな窓。バーカウンターの中に座ってだべる、常連のお姉さんたち。今は亡き小説家のリー・ウェイジン(李維菁)もその一人だった。
あのコミュニティ感は台北にはもうない、と言う人もいる。もちろんほかにアートスペースがないわけではない。例えばシュウ・ジャウェイ(許家維)たちが立ち上げた「打開・当代」や、2008年の台北ビエンナーレをきっかけに設立され、2021年に活動を休止した「台北コンテンポラリーアートセンター(TCAC)」、森人のポストで書いた「立方」など第二世代のオルタナティブ・スペースや、私も一時期属していた「空場(ポリマー)」という共同スタジオの動きなどもあったし、若い人たちは、アート書店の「朋丁(ポンディン)」に集っているとも聞く。でも、個人経営の規模なのに、国際的にあれほど知られ、あらゆるアーティストたちのハブとしてオープンであると同時に、あったかいホームでもあるような場所はやっぱり、後にも先にも、伊通以外には存在しない。
今更かもしれないが、ジュアン・プー、チャオ、リウさんなど、長年伊通を支えてくれたみんなに心からの感謝を伝えたい。
さよなら、伊通。
あなたはいつまでも、私たちの心の中に生きています。本当にたくさんの楽しい時間、自由な空気、沁み入る夜をありがとう。
追記
この記事を書くために伊通のサイトを見ていたら(今でもチャオが私財を投げ打って管理してくれているのだ。資料価値がものすごい)2007年に台北市文化賞を受賞した記念に2009年に制作された伊通についての映像を見つけた。若い家人、今は亡き順築とともに、なんと赤ちゃん連れでインタビューされた私が映っている。ほぼすっぴん!こんな映像があったの、すっかり忘れていた。恥ずかしいけど、ほんと懐かしいし、在りし日の伊通を見ていただけたら嬉しいので、シェアします。
(いやー、華語レヴェルも言ってることも変わらないなー💦)
ちな、この中でチュー・ジャーホァ(朱嘉樺)が「日本のギャラリー」と言っているのは、懐かしい福岡のモマ・コンテンポラリーのことです。話しだすと長いので、この続きはまた今度。
ビデオからいくつかスクショをシェア。





真ん中は、今は日本に住んでいるアメリカ人ライターのSusan Kendzulakと、
右は今でも仲良しのオーストラリアのキュレーターで美術史家のSophie McIntyre.
みんな可愛い。(自分で言う)
