父には、恐竜時代の前科がある
深夜1時。
私はパソコンの前で、
ロシアについて考えていました。
原因は、AIです。
いや。
正確には、父の
「幕末頃じゃない?」です。
この前、父は言いました。
「ロシアの人がいたらしいよ」
私のご先祖様の話です。
さらに時代を聞くと、父は言いました。
「幕末頃じゃない?」
私は父の話を、すぐには
信じませんでした。
なぜなら父には、前科があるからです。
恐竜時代の前科です。
たぶん、私が幼稚園に入った頃
だったと思います。
その頃の私は、本が
好きになり始めていました。
字が読めるようになって、
本の中に知らない世界が
あることを知りました。
そこで、恐竜の本を読みました。
私は恐竜の本を読んで、
かなり真剣に思いました。
こんなコワイ生き物がいるのに、
人間はどうやって生活していたのか?
そこで父に聞きました。
「人間はどうしていたの?」
父は、間髪入れずに言いました。
「隠れながら生きていたんだよ」
しかも父は、口だけでは
ありませんでした。
鉛筆を持ち、紙に絵を描き始めました。
地面に穴。
穴の中に人間。
人間は、たぶん原始人っぽい服。
穴の上には草で編んだ隠れ蓑。
「こうやって隠れていたんだよ」
私は信じました。
かなり信じました。
それからしばらく、私の頭の中では、
恐竜時代の人間たちが穴の中で
暮らすようになりました。
朝です。
穴の中の人間たちは、
そっと草のふたを開けます。
まず周囲を確認します。
右、よし。
左、よし。
恐竜、なし。
そこで、急いで外に出ます。
木の実を拾います。
水をくみに行きます。
たぶん、肉も焼きたい。
でも煙が出ます。
煙はまずい。
恐竜に見つかります。
洗濯物も干せません。
布団も干せません。
遠くから、ズシン、ズシンと
足音がします。
みんな急いで穴に戻ります。
草のふたを閉めます。
中でじっとします。
赤ちゃんが泣いたら
どうするのでしょうか。
大問題です。
私は、赤ちゃんが泣かないように
する方法まで考えました。
私は幼稚園児なりに、人類の
地下生活を心配したのです。
たぶん、おしゃべりも小声です。
かけっこもできません。
だって、恐竜が来るからです。
こうして私の頭の中では、
しばらくのあいだ、穴ぐら人類が
かなり地味に暮らしていました。
父の鉛筆一本で、人類は地上から
姿を消しました。
今ならわかります。
たぶん、父は恐竜時代に人間が
いたと本気で思っていたわけでは
ありません。
父は、娘を失望させないように、
即座に地下の村を建設したのです。
そして私は、恐竜図鑑を読んで
真実に気づくまでの数年間、
その穴ぐら村での生活を
空想していました。
ある日、私は知りました。
恐竜と人間は、同じ時代に
暮らしていなかった。
え。
では、あの穴は。
あの草のふたは。
あの息をひそめる原始人たちは。
私の中で、穴ぐら村は
ひっそりと閉村しました。
だから今回、父が
「ロシアの人がいたらしいよ」
と言ったとき、私はすぐには
信じませんでした。
私は念のため、AIに聞いてみました。
「幕末頃、日本にロシア人が
日本にいた可能性って本当にあるの?」
AIは、たいへん冷静に答えました。
「未桜さん、可能性はあります。
幕末にはロシア使節プチャーチンが
来航し、1855年には日露和親条約が
結ばれています。
ただし、個人の家系については、
戸籍や地域史などの確認が必要です」
父の「幕末頃じゃない?」が、
急に現実味を帯びました。
そして今、私の頭の中では、
幕末のどこかにロシア人が
生活を始めています。
でも、その瞬間。
私はまた一つ、
精神的無敵の人になりました。
家族の言い伝えは、事実だけで
できているわけではありません。
父の「じゃない?」と、
AIの冷静な「可能性はあります」が
混ざって、深夜1時に出現しました。
無敵だ。
最強だ。
親族の間で伝わる、ご先祖に
ロシア人がいたという話。
父の言う、幕末ロシア人が
本当かどうかは、わかりません。
ただ、ひとつだけ
確かなことがあります。
父は昔、鉛筆一本で人類を地下
の穴ぐら村に避難させました。
私はそこで、ふと思いました。
もしかすると、このロシア人の話も、
どこかのご先祖様が作った
穴ぐら村だったのかもしれません。
子どもに聞かれたのです。
「うちは、どこから来たの?」
「うちの人は、どんな人だったの?」
そのとき誰かが、子どもを
失望させないように、遠い国の人を
連れてきたのかもしれません。
ロシアの人がいたらしいよ。
幕末頃じゃない?
そう言えば、子どもの目は少し輝きます。
ただの家の話が、急に海を越えます。
私は今、家系を調べているのか。
それとも、何代も前に誰かが
子どものために作った物語の続きを、
深夜1時に読んでいるのか。
まだ、よくわかっていません。
