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AI日本誕生(1959)|第6章

第6章|国家神話のサンドボックス

神話は、
扱い方を誤れば現実を書き換える。
起源を語り、
秩序を正当化し、
境界を固定する力を持つからだ。

だからこそ、
近代以降の社会において、
神話は常に
慎重に配置される対象になってきた。

1959年の映画が選んだ配置は、
きわめて明確だ。
それは、
映画という枠の中。
言い換えれば、
サンドボックスだった。

サンドボックスとは、
外界と切り離された実行環境のことだ。
中で何が起きても、
外の世界には直接影響しない。
試すことはできるが、
上書きはできない。

映画館という空間は、
この条件を自然に満たしている。
入場し、
一定時間を過ごし、
上映が終われば外に出る。
神話はそこに留まり、
観客は日常に戻る。

この構造によって、
神話は再び扱えるものになる。
信仰でも、教義でもなく、
参照可能な過去として。

国家にとって、
これは都合のよい配置でもあった。
神話を完全に切り捨てる必要もなく、
現実の制度に直結させる必要もない。

映画の中であれば、
神話は語れる。
だが、
法や現実を直接規定することはない。

ここで重要なのは、
これを意図的な操作として断定しないことだ。
誰かが設計した陰謀として読む必要はない。

むしろ、
当時の社会が
無意識のうちに選び取った
安全な置き場所だった、と考えた方が自然だ。

神話は消えていない。
だが、
中心にも置かれていない。
完全に排除もされず、
完全に復権もしない。

映画というサンドボックスの中で、
神話は一度、
静かに再生される。

それは、
国家が神話を再び「使った」
というより、
国家が神話と距離を取る方法を見つけた
と見る方が近い。

この章では、
国家神話の正当性や危険性を
評価しない。
評価するのは、
その配置だけだ。

次の章では、
こうしてサンドボックス化された神話が、
上映後、
どのように残り続けたのか。
再生が終わったあとも
止まらなかったものについて見ていく。

第7章|再生中のまま、終わらなかったもの


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