08|『脳のバックアップ室』🗄️
『深層行動SF 脳の地形図』(全22話のもくじへ)
— 思い出せない記憶は捨てられてはいない
ときどき、どうしても思い出せない記憶がある。
場所は覚えている。
人の輪郭もぼんやり感じる。
けれど、肝心の言葉や匂い、空気の温度だけが抜け落ちている。
そんな夜、私は奇妙な部屋に足を踏み入れた。
そこは “脳のバックアップ室” だった。
薄暗い空間に、無数の引き出しが並んでいる。
どれも開かない。
どれも静かに、こちらを見ているように思えた。
「ここは……?」
「アクセス制限の部屋です。」
背後から、柔らかい声がした。
振り返ると、光の粒が集まって人影のようになっていた。
「思い出せない記憶は、消えているのではありません。
ここに、安全に保管されています。」
私は目を見張った。
「じゃあ、忘れたんじゃなくて……しまわれてる?」
「はい。
あなたの今の状態では“開けると負荷が大きい”と判断されたもの。
あるいは“保持する必要はあるが、参照頻度は低い”もの。」
光の影は、引き出しのひとつに触れた。
中から淡い光が漏れたが、すぐに閉じられた。
「あなたが思う以上に、脳は慎重な管理者です。
必要ない苦しみを呼び戻さず、
必要な部分だけを今のあなたへ渡す。」
私は思わず聞いた。
「じゃあ、二度と思い出せない記憶は?」
光は少しだけ優しく明滅して答えた。
「“思い出さない”ことはあっても、
“存在しない”ことはありません。
人生の形をつくった重要な断片ですから。」
ふと、ひとつの引き出しがカタリと鳴った。
触れてはいけない気がして、そっと視線を逸らした。
「大丈夫です。
開ける必要があるときは、部屋のほうからあなたを呼びます。」
そう言われた瞬間、
部屋のすべての引き出しが淡く光った。
まだ開けられない記憶がある。
まだ開けなくていい記憶もある。
それでいいのだと思えた。
次の瞬間、バックアップ室は消え、
私は静かな部屋に一人で立っていた。
胸の奥に、触れずに取っておくための
小さな余白が生まれていた。
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