AI日本誕生(1959)|第3章
第3章|語らされる神話
神話は、自分から語り出すことはない。
語られるとき、
必ず誰かの声を借りる。
それは個人の声であることもあれば、
制度の声であることもある。
書物、舞台、教育、映像。
どの形式であっても、
神話は常に媒介を通してのみ現れる。
1959年の映画において、
神話は「語られる対象」ではなく、
語らされる存在になった。
ここで起きているのは、
解釈ではない。
翻案でもない。
ましてや信仰の回復でもない。
起きているのは、
神話を一度、
語りとして成立させるための再構成だ。
語りには条件がある。
始まりが必要で、
順序が必要で、
終わりが必要になる。
誰かが主役になり、
誰かが脇に退き、
出来事は連なりとして配置される。
この操作は、
神話にとっては異物でもある。
神話は本来、
循環し、重なり、
前後関係が曖昧なまま存在してきたからだ。
だが、
映画という形式は、
その曖昧さを許さない。
上映時間は限られ、
フィルムは一方向にしか進まない。
観客は、
途中で立ち止まることも、
ページを戻すこともできない。
だからこそ、
神話は語らされる。
誰が最初に現れ、
何がきっかけとなり、
どこに向かって進むのか。
それらを決めることは、
神話の「正しさ」を決めることではない。
再生可能な形に落とし込むための手続きにすぎない。
ここで重要なのは、
語り手の意図を探ることではない。
誰が何を主張したかったか、
という問いは、この連作の射程ではない。
見るべきなのは、
神話が「語らされる構造」に置かれた、
という事実そのものだ。
神話が語らされるとき、
それはすでに、
社会の中で安全に扱える対象になっている。
語りに回収できるということは、
制御可能である、ということだからだ。
1959年の映画は、
神話を信じさせるために語ったのではない。
神話を語れるものとして整形した。
それによって、
神話は現実から切り離され、
しかし同時に、
忘却からも救われた。
語らされることで、
神話は一度、
人間の時間の上に置かれる。
それは本来の姿ではないかもしれない。
だが、
再び参照されるためには、
必要な歪みでもあった。
次の章では、
この「語らされる神話」が、
具体的にどのような姿で現れたのか。
神々がどのように
登場人物=UIとして配置されたのかを見ていく。
