方面委員の物語(04)
子だくさんの飴売り奮闘記
今回紹介する例は方面委員本人が語る形式の話です。話の途中で「カード階級」という表現が出てきますが、最初にこれを読んだ時、私は意味が分かりませんでした。そこで調べた結果を文末に添えました。
私の担当区域に住む金〇〇五郎という人は、定職を持たず、田舎を回って飴を売る「呼び売り」をして生計を立てていました。妻は盲目で按摩(あんま)を生業としていますが、子どもが多く、ほとんど働きに出られません。収入はわずかで、善意ある支援者の同情に支えられながら何年も貧困生活を続けていました。
当時の家族構成は夫婦と子ども7人、そのうち1人は生まれたばかりの赤ん坊でした。昭和7年1月にこの市でも救護法が施行され、生活扶助の恩恵を受けるようになりました。子どもたちは学校で欠食児童として給食支援も受け、ようやく多少の安心を得られるようになったのです。
しかし日雇い仕事は収入が安定せず、収益も雀の涙。秋になるとサツマイモやミカンが出回るため飴の売れ行きが悪化し、生活難がまた表面化してきました。やる気を失いがちな金〇に「諦めず仕事に打ち込むように」とその都度説得と励ましを続けてきました。
また、町内で人手が必要な時はできる限り彼を雇ってもらうよう、各方面に依頼して支援策を講じました。彼が貧困から抜け出せない原因は、主に収入の少なさと、子どもの多さ(妻の多産)にあると考えられました。
昭和8年、産児制限が話題になった際には、これも1つの支援策ではないかと考え、産科医など専門家の意見を聞き、彼に適用できるかを検討しましたが、結局「カード階級※」には現実的に適用困難であると判断されました。
その後、妻のユウは昭和9年3月に一人娘を出産し、翌年には再び死産。しかも難産で助産婦の手に負えず、市立病院に入院し、2か月にわたり医療費を救護しました。
そんな中、昭和10年には「チンドン屋」(広告業:昭和初期の都市部では商品宣伝の一環としてチンドン屋が用いられ、祭りや開店イベントなどで目立つ存在となっていた)が流行し、新たな職業として定着しつつありました。金〇に話をしたところ、長年の飴売りの呼び声で鍛えた技術が活かせると気づき、見事に「チンドン屋」へ転向。数か月で一人前になり、安定した収入を得るようになりました。
これを機に一家再建を目指し、子どもたちが成長するにつれ奉公に出し、家族の人数を減らして扶養の負担も軽くなり、生活は少しずつ安定していきました。
昭和11年11月には生活扶助の給付を打ち切ることとなりましたが、本人はその後も懸命に働き、昭和12年7月には市の衛生課の清掃作業員として雇用され、ついに安定した職に就きました。
飴売りとして10年以上もわずかな収益で生活を繋ぎながら、盲目の妻と8人の子を育てた金〇一家は、ようやく更生への第一歩を踏み出すことができました。
これは救護法の恩恵によるものであり、社会事業の意義と方面委員の責任の重さを痛感させられる実例です。金〇のように自ら努力を続ける貧困者が、一日も早く「一陽来復(幸運の回帰)」の日を迎えることを願っています。
解説
「カード階級」とは
方面委員関係の資料に頻出する表現で、貧困層、特に社会救済を受けている層(生活扶助カードなどを交付された人々)を指すようで、戦前の福祉行政で実際に使用されていた表現である可能性が高いです。チンドン屋の転身
当時の広告業の1つであるチンドン屋(派手な衣装で太鼓や楽器を鳴らしながらの宣伝)は、身体的技能や発声の技術が大切ですが、資格不要で即座に始められる職業でした。飴の呼び売りと親和性が高く、転職先として成功したのは非常にリアリティがあります。産児制限の話題
1930年代の日本でも産児制限(避妊)が議論され始めたことが分かる貴重な記述です。ただ、実行手段や技術的ハードルから、当時の「カード階級」には実行困難だったこともまた、社会的格差を示しています。救護法と方面委員の役割
本事例では方面委員が生活相談・就労斡旋・産児制限の検討・医療救護の申請まで担い、じつに多面的な支援が行われていたことが分かります。今でいう「ケースワーカー」+「地域支援員」に相当する存在でしょう。
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