「書けば書くほど、ネタが増えていく」という、嬉しくも贅沢なバグについて
noteを始めたばかりの頃の自分を振り返ると、少し懐かしい気持ちになる。
当時は、「明日は何を書こうか」「毎日のネタが尽きてしまったらどうしよう」と、画面の前で頭を悩ませる日も少なくなかった。
白紙の画面を前に、ひねり出すようにして言葉を紡いでいた記憶がある。
しかし、今の自分をとりまく状況は、それとはまったく逆のものだ。書けば書くほど、書きたいことが増え続けていく。
100記事という節目を越えて、起きた変化
振り返れば、投稿が100記事を超えた頃から、その変化ははっきりと現れ始めた。
それまでは必死に探していたはずの「ネタ」が、100という数字を境に、向こうからこちらへ引き寄せられるように集まりだしたのだ。
そして今、そのスピードはさらに加速している。
一つ記事を書き終えたはずなのに、その日のうちに、さらに二つ、三つと「書きたいこと」が新しく湧き出てくる。
それは、日常のちょっとした気づきのような簡単なものから、じっくりと言葉を尽くしたい長文のテーマまで、多種多様に。
気づけば、いつでも世に出せる状態の「記事のストック」が、今や20本ほど溜まってしまっている。
枯渇するどころか、言葉の泉が止めどなく溢れ出しているような、嬉しくも贅沢な、そして少し困った悩みの真っ最中に、私はいる。
引き寄せられたのか、僕の意識が変わったのか
一体、何が起きたのだろう。
noteという世界の引力が、新しいネタを僕の元へ引き寄せたのだろうか。それとも、毎日書き続ける中で、僕自身の「意識」が変わったのだろうか。
おそらく、後者なのだと思う。
100本もの記事を紡ぐ過程で、僕の日常を見る解像度は劇的に変わった。
以前なら何気なく通り過ぎていた景色、誰かとの短い会話、ふとした瞬間に心に浮かんだ違和感や心地よさ。
特に、日常に転がっている「ほんの数秒の出来事」に、驚くほど敏感になった。
信号を待つ一瞬の静寂、すれ違った人の何気ない仕草、窓から差し込む光の角度が変わる瞬間。
時間にしてしまえば、わずか2秒か3秒の、意識しなければ砂のようにこぼれ落ちていく微細な変化。
今の僕は、その一瞬に立ち止まり、「これはどういうことだろう」「なぜ今、心が動いたのだろう」と深く見つめる癖が、いつの間にか脳に染みついている。
ネタが向こうからやってくるのではない。
僕の意識が変わり、数秒の隙間に隠された世界のかけらを拾い上げられるようになったからこそ、あらゆる日常が「物語の種」として立ち上がってくるようになったのだと思う。
脳内に訪れた「ライターズハイ」
この不思議な現象を体感しながら、私は以前書いた、あるテーマのことを思い出していた。
それは、マラソンなどで一定の距離を走り続けると、ある瞬間に肉体の疲労感が消え、どこまでも走っていけそうな全能感に包まれる「ランナーズハイ」という現象だ。
いま僕の脳内で起きているのは、まさに執筆における「ライターズハイ」とでも呼ぶべき状態なのだと思う。
毎日言葉を紡ぎ、思考を整理し、発信し続ける。
この「思考のマラソン」をストイックに継続し、100記事という一つの節目を越えたことで、脳の中に「執筆専用の回路」のようなものが完全に開通したのではないか、という仮説だ。
描けば描くほど、目の前に新しい真っ白なキャンバスが現れるような、そんな心地よい駆動感がここにはある。
「一日に二回投稿」という誘惑と、守りたい規律
これだけストックがあるのなら、いっそ「一日に二回投稿すればいいのではないか」という考えが頭をよぎることもある。
実際、小まめに投稿すれば、それだけストックは消化されていくだろう。
しかし、それは「なんか違う」と、自分の直感がストップをかける。一日に二回の投稿は、私の生活の中に築き上げてきた美しいリズムを、どこか崩してしまうような気がするのだ。
僕にとって、一つの記事のボリュームは「2,000文字くらい」が最も心地よい目安だ。読者にとっても、自分にとっても、じっくり読めて負担にならない距離感。
だからこそ、一つのテーマが4,000文字を超えそうになる場合は、できるだけ前編と後編に丁寧に分けて届けるようにしている。
ただ、前編と後編に分けることで、文章が持つ独特の熱量やスピード感が削がれてしまうと感じることもある。そんな時は、あえて分断せず、たまには4,000文字の長文のまま一気に投稿することもある。
型に縛られすぎず、そのテーマが一番輝く形で見極めたい、というのも僕なりのこだわりだ。
そして何より、「毎日20時に、一つの記事を公開する」という規律。
この時間と回数の制限があるからこそ、私は生活を整え、思考をデザインすることができている。数をこなすために1回の打率を下げるようなことはしたくないし、何より、その「20時」という約束の時間を自分自身が一番大切にしたいのだ。
だから、ストックがどれだけ増えようとも、毎日20時のひとつの投稿というルーティンは変えない。
溢れるストックは、未来の自分への貯金
しかし、この心地よい「ハイ」も、きっといつかは切れる時が来るのだろう。
無限に湧き出るように思える泉も、ふとした瞬間に足踏みをしたり、再び白紙の画面を前に沈黙したりする日が訪れるかもしれない。
マラソンと同じで、ずっと全力疾走のままでいられるわけではないのだ。
だからこそ、この溢れるストックは、未来の自分への貯金なのだと思う。
調子が良い時に言葉を蓄えておく。それ、いつか訪れるかもしれない「走れない日」の自分を支えるための、心強いセーフティネットになってくれるはずだ。
心にその余裕を持ちながら、毎夜20時の約束に向けて、最高の一枚を差し出していく。それ自体が、今の僕にとって非常に贅沢なライフデザインになっている。
ネタがなくて苦しんでいた過去の自分に、「100記事を超えたあたりから、書きたいことが多すぎて困るようになるよ」と伝えたら、一体どんな顔をするだろうか。
改めて、noteという世界の凄さと、書くことの純粋な奥深さを噛み締めている。
ここは、走れば走るほど、どこまでも遠くへ行ける場所だ。
さて、僕の脳内には、今日も新しく書きたいテーマが列をなして待っている。それらをまた一本ずつ、丁寧に、心地よいボリュームに仕立てていこう。嬉しくも困った悩みを抱えながら。
明日の20時も、またここで。
