ミシュナ『Peah』の法理体系 第10回:「貧者」を定義する200ズズ――資産査定における生活必需品の除外と商業資本50ズズの換算論理
*口伝律法『ミシュナ』「Peah(ペアー篇)」全編の完結編となる第10回では、救貧義務の受給権者を分かつ「貧者の法的定義」を徹底解剖する。
救貧資産(Peah等)の受給基準となる「200ズズ」の多層的な法意を、結婚契約書(Ketubot)の保証金規定と交差させながら検証。さらに、資産査定における生活必需品(家財・安息日用器)の除外論理、50ズズの商業資本が有する動的価値、そして不法受給に対するラビ文学特有の宗教的・道徳的帰結を詳解する。
厳格な法理の果てに、エレミヤ書17章の預言と結合して提示される「神への絶対的信頼」という『Peah』の究極の帰結を提示する。
前回の振り返り
前回は、ミシュナ「Peah(ペアー篇)」第7章7節から8節に基づき、ぶどう畑の収穫が全て「oleilot(オレロット:未成熟な房)」であった場合の帰属、および畑を「聖別」するタイミングが救貧義務に与える影響について解説した。
主な内容は以下の通りである。
【1】全てがoleilotである畑の帰属論争(7章7節)
畑に実ったぶどうが、全て「肩もペンダントもない(oleilot)」であった場合の扱いについて、二人の有力なラビの見解が対立している。
①ラビ・エリエゼルの見解
申命記24章21節の「ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くして(oleilotを取って)はならない」という記述を根拠とする。
彼は、この掟の前提条件は「ぶどうの取り入れをするとき」、つまり「通常のぶどうの取り入れがある」ことであると考える。従って、立派なぶどうが一つもない場合は、oleilotを残す義務自体が発生しない。
②ラビ・アキバの見解
レビ記19章10節の「ぶどうも、摘み尽くして(oleilotを取って)はならない」という記述を根拠としている。この節には前提条件が付けられていないので、oleilotであれば無条件で貧しい人のものになると解釈する。
申命記24章21節の記述については、単に「所有者が先に収穫し、その後に貧しい人が取る」という収穫の順番を述べているに過ぎないと考える。
【2】「聖別」のタイミングと所有権の移転(7章8節)
畑を神殿の所有物とする「聖別」がいつ行われるかによって、貧しい人の権利が確定する。
①oleilot識別前の聖別
まだ普通の房かoleilotか見分けがつかない段階で農夫が畑を聖別した場合、畑全体が神殿の所有となる。救貧義務は「あなたの(個人所有の)ぶどう畑」に対して生じるもの(レビ記19章10節)であるので、この場合、oleilotは貧しい人のものにはならない。
②oleilot識別後の聖別
oleilotが識別できるようになった後に聖別した場合、そのoleilotは既に法的に貧しい人の所有物となっている。
農夫は他人の所有物を聖別することは出来ないので、立派なぶどうは神殿のものになるが、oleilotはそのまま貧しい人のものとして残る。
【3】ラビ・ヨセの「成長の費用」に関する法理
識別後に聖別された場合でも、oleilotの成長プロセスに注目した独自の経済的視点が示されている。
聖別された瞬間から木自体は神殿の所有物となる。その後のoleilotの成長は、神殿所有の木から養分を得ていることになるので、ラビ・ヨセは、貧しい人はその「成長分に相当する費用」を神殿に納めなければならないと主張した。
以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ『Peah』の法理体系 第9回:ぶどう畑がoleilot(摘み残し)のみである場合の法解釈と「聖別」のタイミング
https://note.com/mishnah/n/nf3db74a974be
ミシュナ『Peah』8章8節における「貧者」の法的定義と200ズズの受給基準線
今回はその続きである。
これまでの回では、「何を貧しい人に与えるのか」を問題にしてきた。今回は「誰が受け取るのか」、つまり「貧しい人とは誰なのか」を扱う。口伝律法ミシュナ「Peah」8章8節を引用する。
救貧法上の「年間生活維持費」と結婚契約書(Ketubah)保証金額の法理的互換性
もし人が200ズズ持っているなら、彼はleket、shichchah、peah、maaser・aniを受けてはならない。もし彼が200マイナス1ディナルであるのなら、たとえ誰かが彼に1,000与えたとしても、―彼は受けることが出来る。もし債権者に対する、またはketubahに対する担保として、誓ったものであるなら、彼は受けてもよい。
私たちは彼が自分の持ち家を売るようには強制しない。
以前の記事でも触れたが、200ズズという金額は1年間の食費と衣類を賄うことが出来る額である。もし誰かが200ズズを所有しているなら、貧しい人とは言えない。
トーラは「貧しい人」にpeah、leket、shichchah、peret、oleilot、maaser ani(以下、これらを総称して「peah等」と表記する)を与えるように規定しているが、200ズズ所有している者は、これらのものを受ける権利を持たない。
ちなみに200ズズという金額は、結婚契約書(ketubah)で妻が不測の事態(夫の帰天、離縁)において通常保証される額でもある。この辺りの知識に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。
◉ミシュナ「Ketubot(ケトゥボット)」逐条解説 第1回:結婚契約書における法的義務と権利の確定――婚姻区分(erusin[エルーシン]/nisuin[ニスイン])に基づく保証金額の法的多層性と伝統的諸註釈の再構築
https://note.com/mishnah/n/na82003c4a72d
もし200ズズにわずかでも満たない額しか所有していないなら、その者はpeah等を受けることが出来る。
「たとえ誰かが彼に1,000与えたとしても、―彼は受けることが出来る」とは、peah等を受ける前に大きな財産を得たらpeah等を受けることは出来ないが、同時か、それ以降であるなら、問題ないことを言っている。
要するに、peah等を受ける前の経済状態が基準になっているという事である。
債務担保および生活必需品(可処分外資産)の控除による純資産査定論
次の「もし債権者に対する、またはketubahに対する担保として、誓ったものであるなら、彼は受けてもよい」とは、peah等を受ける基準となる200ズズには、以下のものは含まれないことを明記したものである。
①債権者の担保になっている財産
②ketubahの為の担保になっている財産
多くの財産を所有していたとしても、借金が財産の価額を上回っているなら、peah等を受けることが出来ることになる。
本節最後の「私たちは彼が自分の持ち家を売るようには強制しない」とは、本人の財産状態の査定において、その住んでいる家や家具などは対象にならないという事である。
これらは生活にとって不可欠のものだからである。
たとえ金の杯や銀の皿などがあり、売却したら200ズズ以上の財産を持つことになると見込まれても、保持することが認められる。なぜならそれらは安息日や祭日の為のものであり、「生活にとって不可欠の所有物」と認められるからである。
ただし自分で使わない家など、本人の生活にとって不可欠のものでないなら、peah等を受ける前に売却しなくてはならない。
次節に進む。
ミシュナ『Peah』8章9節:流動資本「50ズズ」が持つ動的価値と不法受給の禁止
もし50ズズを持って商売をするのなら、彼は取ってはならない。
誰であれ、取る必要がないのに取る者は、誰かに頼らない前にこの世を去ることはないだろう。
前節では200ズズに満たない財産の者は、peah等を受ける権利があると規定されていた。もしも仕事をしている者が50ズズの資本を持っているなら、それは所有しているだけの200ズズに匹敵するという趣旨である。
なぜなら彼は50ズズを活用して、生活費を稼ぐことが出来るからである。
「誰であれ、取る必要がないのに取る者は、誰かに頼らない前にこの世を去ることはないだろう」とは、本来であればpeah等を受ける資格が無いのに、不法に受けている者について言っている。
2つのことがこの箇所で意味されている。
①このような事をする者は、若死にすること。
②死ぬ前に、本当に人の世話にならないと生きていけない程に零落すること。
続きには次のように書かれている。
エレミヤ書17章との結合に見る、救貧法理の終着点としての「神への絶対的信頼」
誰であれ、受ける必要があるのに受けない者は、彼自身他の人を養うことが出来るようになる前に、この世を去ることはない。
この箇所は合法的にpeah等を受けることが許されているにも関わらず、他者に迷惑をかけることを厭い、自らの生活水準を下げ、仕事に一生懸命取り組み、自活するように努める者のことを言っている。
このような者は最も高い賞賛に値するものであり、長寿を全うし、自分が他人の世話になるような状況から、彼が他人を世話するような状況に改善することを述べている。
このような者について、続きには次のように書かれている。
彼について、聖書には次のように書かれている、「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」(エレ17:7)
彼は自分の不足分を他人に賄ってもらうことを良しとせず、神に信頼して勤しんだ。そのことを述べたものである。
エレミヤ書の続きには、次のように書かれている。
彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない。
エレミヤは先程の、社会を欺いて他人から分け前を得ようとする者については、次のように言っている。
主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。
ここまで私たちは口伝律法ミシュナ「Peah」を学んできた。その中で私たちは多くの規定を学んだが、他ならぬ「Peah」の最後の本文で、神への信頼、神への忠実を説いていることは、真に時宜にかなったものと言わなくてはならない。
以上で「Peah」のシリーズを終了とする。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Peah』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n2d88667d1089
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
