ミシュナ『Kiddushin』法理研究 第3回:妻の獲得の法理から奴隷獲得の法理への移行、ユダヤ人奴隷の4類型及びその獲得方法(1章2節)
【学術的免責事項】本稿は、古代ユダヤ法(ハラーハー)および歴史的文献である口伝律法ミシュナに関する純粋な聖書学的・法理学的研究である。記述されている「奴隷制度」に関する規定は、当時の古代中東社会における社会経済的文脈および歴史的背景に基づくものであり、現代におけるあらゆる人権侵害、強制労働、差別、または奴隷制度を肯定・擁護・助長する意図は一切ありません。
本稿は口伝律法ミシュナ第3部『Nashim(ナシーム)』に属する『Kiddushin(キッドゥーシン)』の第3回目の解説である。
前2回の論考では、結婚の第1段階である「kiddushin(キッドゥーシン)」の核心的な法理や祭司の純潔性と血統調査について扱った。第3回となる本稿では、ミシュナ「Kiddushin」1章2節へと歩みを進める。
一見すると主題である「婚姻」から離れ、「ユダヤ人奴隷の獲得と解放」へと迂回するように見えるこの章節が、なぜここに配置されているのか。その論理構造を解き明かすとともに、トーラに記された4つの奴隷区分の定義、タルムード(ゲマラ)やラシ(Rashi)らの古典的注解に基づく、硬貨・文書による獲得の演繹プロセスを精緻に検証する。
「Kiddushin」については概略だけを示す為に、2026年の5月に2回に渡り論考を公開した。以下の通りである。
◉ミシュナ『Kiddushin(キッドゥーシン)』の法理 第1回:ユダヤ法における「女性の聖別」と獲得の諸態様――第1章1節–2章3節による三つの獲得手段・代理人・錯誤による合意の無効
https://note.com/mishnah/n/n32ed69a29932
◉ミシュナ『Kiddushin(キッドゥーシン)』の法理 第2回:祭司の純潔性とzonahの再定義
https://note.com/mishnah/n/naaa933bd97c4
この内、第1回目の法理研究では「1章1節、2章1節~3節」を扱った。
第2回目の法理研究では「4章1節、4章4節」を扱った。すなわち最も重要な法理だけを示す為に、多くの章節を省いたのである。
今回は一端引き返し、「Kiddushin」について、扱っていない章節を順番に扱い、ミシュナ「Kiddushin」への理解を深めたいと考えるものである。
それに先立って、まずここで第1回、第2回の研究内容を以下の通り要約する。
前回までの法理研究の総括と要約(第1回・第2回)
【1】2段階の結婚プロセス
①第1段階:kiddushinまたはerusin
kiddushin(またはerusin)は、日本語で「婚約」と訳されることが多いが、本質的には「女性を自らの妻として聖別する」ことを指し、結婚の第1段階にあたる。この段階を終えた2人は律法上で既婚者とみなされ、他の者との性行為は姦淫(極刑に値する行為)と見なされる。
②第2段階:nisuin(ニスイン)
kiddushinの後、妻は通常約1年間の準備期間を父親の元で過ごし、第2段階である「nisuin(ニスイン)」によって結婚が完成する。
【2】kiddushinの手続き(ミシュナ1章1節)
男性が女性を妻として聖別するためには、2人以上の証人の前で明確な宣言を行い、以下のいずれかの手段を用いる必要がある。
①お金
金銭または価値のある物(指輪など)を渡す。金額の最低単位について、1ディナル以上とするシャンマイ派(Beit Shammai)と、1ペルータ以上とするヒレル派(Beit Hillel)の間で論争がある。
②文書
彼女が妻となる旨が明記された書面を渡す(文書自体の金銭的な価値は問われない)。
③性行為
合意の上で性行為を行うが、穏当ではないためラビから禁止されており罰則(鞭打ち)を受けることになる。ただし性行為をした場合、kiddushinは事後的に有効となる。
【3】代理人と錯誤による契約無効(ミシュナ2章1〜3節)
①代理人の利用
結婚手続きは男女ともに代理人を通じて行うことが出来る。父親は娘が「naarah(満12歳からの半年間)」の時期に、代理人または自身を通じてkiddushinを行うことが出来る。
②錯誤の法理
結婚は双方の合意で成立するため、経済力、身分、家系、環境などの提示された条件に錯誤があった場合、たとえ女性が事後に「私はそれでも彼に嫁ぎます」と承諾したとしても、その結婚は無効(娶られていない)となる。
【4】血統の階層と婚姻資格(ミシュナ4章1節)
バビロンからの帰還者には10の系図上のグループ(祭司、レビ人、イスラエルの民、chalalim、改宗者、自由人、mamzer、ネティニーム、shetukim、捨て子)が存在し、婚姻が可能な組み合わせに厳格な制限があった。
①結婚の制限
祭司は、レビ人およびイスラエルの民としか結婚出来ない。レビ人や一般のイスラエルの民は、chalalim(不適切な関係から生まれた祭司の子)、改宗者、自由人とも結婚可能である。
②正統な血筋との結婚が禁じられる身分
以下の身分は、正統なイスラエルの家族と結婚することが出来ない。
・mamzer(マムゼル):姦淫などの禁止された関係(karetになる関係)から生まれた子。
・netinim(ネティニーム):ギベオン人の子孫。
・shetukim(シェトゥキーム):母親は判明しているが、父親が不明な者。
・捨て子:父母ともに不明な者。
【5】「zonah(ゾナー)」の法理学的定義と血統調査
①zonahの定義
zonahはしばしば「遊女」と翻訳されるが、単なる道徳的用語ではなく、「性行為が許されない男性と性行為をした女性」または「結婚してはならない男性と性行為をした女性」を指す。
これに該当する女性は、祭司と結婚出来なくなり、聖別された食物(terumah:テルーマー)を食べる権利も喪失する。
②祭司の血統調査(ミシュナ4章4節)
祭司が祭司の娘を娶る場合、血統の純潔性を守るために、基本的に母系の系図を4代(8人)にわたって調べる必要がある。
レビ人やイスラエルの娘を娶る場合は、より問題を内包しやすいため、さらにもう1代追加して(5代前まで)調査を行う必要がある。
ミシュナ『Kiddushin』1章2節:ユダヤ人奴隷の獲得と解放
以上を前提に口伝律法ミシュナ「Kiddushin」1章2節に入る。まずは本文を引用する。
ユダヤ人奴隷は硬貨もしくは文書によって獲得され、年数によって、ヨベルの年によって、あるいは硬貨の差し引きによって自らを解放する。
「Kiddushin」1章1節では妻を獲得する手段について述べられた。ミシュナではこれに関連して、他の物を獲得する手段について話を広げている。
ミシュナは「口伝律法」である限り、メインテーマの中で論じられていたことから、暫時迂回して別の話題に移り、また戻って来るという構造が見られる。
「Kiddushin」自体は結婚の第1段階を主に扱うものであるが、1章1節で妻を獲得する手段について述べたので、その後に奴隷獲得の手段について触れたものである。
トーラにおけるユダヤ人奴隷の4つの法的区分
さて、トーラにおいて、ユダヤ人奴隷は次の4つの仕方で語られている。
①盗みを働き、それを返済できない男
これは加害者が被害者へ弁済する能力がないので、法廷によって売却されるケースである。トーラには次のように書かれている。
彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。
②父親によって売却された12歳未満の少女
人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去るときと同じように去ることはできない。もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、・・
この場合、将来的に主人または主人の息子との結婚が前提になる。
③極貧のために、自らを売却した男
トーラには次のように書かれている。
もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。
④異邦人に自らを売却したユダヤ人
トーラには次のように書かれている。
もしあなたのもとに住む、寄留者、滞在者が豊かになり、あなたの同胞が貧しくなって、あなたのもとに住む寄留者ないしはその家族の者に身売りしたときは、
この内「寄留者、滞在者」は原文ではger toshav(ゲル・トーシャヴ)である。聖地に住む為にノアの法を受け入れた異邦人である。
トーラで語られている「ユダヤ人奴隷」は以上の4つである。これを前提に再度「Kiddushin」1章2節を引用する。
ユダヤ人奴隷は硬貨もしくは文書によって獲得され、年数によって、ヨベルの年によって、あるいは硬貨の差し引きによって自らを解放する。
最初にこの「ユダヤ人奴隷」そのものについて解説する。
ユダヤ人奴隷の法的地位とカナンの女奴隷との婚姻強制に関する解釈(Gemara 24b)
この箇所の「ユダヤ人奴隷」は法廷によって売却されたユダヤ人の男性を指す。 これに「自らを売った男」も含まれるかどうかは、「奴隷は6年間の労働の後に自由の身となる」という規定が、自らを売った者にも適用されるかどうかの解釈に依存する。
奴隷になったユダヤ人は主人の所有下に入り、主人のために働き、自らの労働から得られる全ての利益の権利は主人に帰属する。
さらに、主人はユダヤ人奴隷に対してカナンの女奴隷との結婚を強要することが可能であり、それによって生まれた子供は主人のカナン人奴隷となる。トーラには次のように書かれている。
もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。
ただしタルムードのGemara 24bによると、これが適用されるのは法廷によって売却された奴隷のみである。Rashiの解説によると、出エジプト記21章2~6節は、窃盗を犯し、被害者に補償する経済力がない加害者が、法廷に売られた事案を扱っている。従って貧窮の為に自らを売った場合は含まれない。
他方でRitvaによると、自らを売ったユダヤ人奴隷であってもカナンの女奴隷との結婚自体は許されるが、主人がそれを強要することは出来ないとされる。
獲得手段の演繹解釈:硬貨と文書による獲得法理
さて、ミシュナの中ではユダヤ人奴隷の獲得手段について触れられている。
硬貨による獲得手段の具体的態様
「硬貨によって」とは、法廷によって売却される場合は、盗みに入られた被害者に金銭を支払って獲得する。ユダヤ人奴隷が自らを売っている場合は、主人がその奴隷に金銭、または金銭的価値のある物品を与える。
この方法は未成年であるユダヤ人女奴隷の獲得にも用いられる。その場合の金銭は彼女の父親に与えられる。また、異邦人によるユダヤ人奴隷の獲得においても同様に支払いによって獲得される。
文書による獲得手段の聖書学的演繹(出エジプト記21章10節/申命記15章12節)
次に「文書によって」獲得される手段についてである。主人は奴隷に、彼を獲得することを記した文書を交付することで獲得する。この方法は出エジプト記21章10節から演繹されている。次のように書かれている。
もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。
この箇所では「別の女」を娶る場合と記されている。Ravによると、この「別の女」はユダヤ人女奴隷を指している。妻とユダヤ人女奴隷が並置されていると見ることが出来る。
ユダヤ人の妻は証書によって獲得されることは、本記事冒頭の復習でも確認した。両者が並置して記述されているので、ユダヤ人女奴隷も証書によって獲得されることが演繹される。
また申命記15章12節には次のように書かれている。
同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば
この箇所では法廷によって売られるユダヤ人男性と、父親に売られるユダヤ人女性が並べて置かれている。この箇所を根拠に、法廷によって売られるユダヤ人男性に関する規定は、ユダヤ人女奴隷に関する規定に並行すると解釈される。そこでユダヤ人男性は証書で獲得することが出来る。
sachir(雇い人)の類推解釈(Gezera Shava:ゲゼラ・シャヴァ)と異邦人の証書システム除外
最後に貧窮の為に自らを売ったユダヤ人男性に関する規定は、法廷によって売却されたユダヤ人男性に関する規定から導き出される。なぜなら、トーラはこれら両方の奴隷に対してsachir(サヒール)という単語を用いているからである。
トーラにおいて、同じ単語を用いている場合、互いの箇所は互いの意味を補足する場合がある。自らを売ったユダヤ人男性と法廷によって売却されたユダヤ人男性について、sachir(サヒール)が用いられていることは、この場合に該当すると解釈されている。
他方で、異邦人は証書によってユダヤ人を獲得することは出来ない。異邦人は奴隷を獲得する時も、解放する時も金銭のやり取りのみで行い、律法における証書システムの適用対象外であるからである。
次回は続きを扱い、奴隷解放のプロセスから再開する。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Kiddushin』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n5c6eb96bfb7e
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.3】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.301〜No.400)
https://note.com/mishnah/n/n88e9e10a3364
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
