【構造解剖】生成AI時代にライターが生き残るための「3つの絶対条件」──知情意のアーキテクチャから読み解く
AIは人間の精神活動の「知」の部分集合に過ぎない。本記事ではカントの「知情意」をフレームワークに、AIが欠損する身体性と意志の領域を解剖。アルゴリズムが予測不可能な「未知の視点」「身体的経験」「個人的信念」こそが、情報過多の時代に生き残るための絶対条件であることを論理的に導き出す。
事象の観測──生成AIの進化と「ライター不要論」の構造
ラッダイト運動の不可能性と、変幻自在な「鵺」との共生
近年、AIの進化が凄まじい。
ChatGPTが2022年11月30日にOpenAIによって公開されて以降、世の中の常識が刻々と塗り替えられつつある。
別記事で書いたように、AIを活用すればプログラミングの知識が一切なくても瞬時に目的のプログラムを作成することもできるようになった。これをうまく活用すれば、オフィスでの作業効率も爆速で上がりそうだ。
新しい技術はどんどん使った方がいい。それが世の為、人の為になるなら、猶更そう思う。
しかしその一方で、魔法のように有り得ない速度で文章を生成し続けるAIに、仕事を奪われてしまわないかと脅威を感じている人々もいる。
その職業の一つが、言葉を操るライターという職業だ。
それもそのはずだ。プロの文章の使い手として魂を削りながら完成させた記事と同じようなテイストの記事が、いとも簡単にAIによって画面上に吐き出されていくのだ。
さらには小説の世界でも、AIとの対話により小説を完成させるという実験的なプロジェクトが現実に行われているようだ。
最近ではそんな状況に、「ライターはオワコンだ」という趣旨の言説も多く耳にするようになってきた。
そんな世の中の風潮に竿を指すように、「オワコンを終わらせる」と叫ぶ勇者クリエイターがいる。ライターを職業とするみくまゆたんさんだ。
みくまゆたんさんは、ライターをする傍ら、noteやtalesでエッセイや小説を発表されている作家さんでもある。
そんなみくまゆたんさんの魂の叫びの記事が熱い。
「秩序に支配された令和時代にドロップキックをかましてやりたい。」という意気込みは、何とも心強い限りだ。「ライターはオワコンだ」という金太郎飴のような軽々しい言説を繰り返し垂れ流す輩には、ぜひ怒りの鉄槌を下して欲しいものだ。
産業革命の時にはラッダイト運動が沸き起こった。労働者たちが、自動化により自分たちの職を奪おうとする産業機械を叩き壊して、自分たちの権利を取り戻そうとしたのだ。
ラッダイト運動(Luddite movement)は、19世紀初頭のイギリスで起きた「機械打ちこわし運動」のことです。産業革命における急速な機械化によって、自身の雇用が奪われ賃金が低下することを恐れた手工業者たちが、工場や機械を破壊して激しく抵抗しました。
現代のAI革命においても、同じようにラッダイト運動が湧き起こる可能性はあるのだろうか?
これについては少し疑問に思っている。
産業機械は、物体としてそこに存在しているからこそ叩き壊すことができた。それに対して生成AIは、幾らでもコピーが可能な特性を生かし、世界各地のデータセンターや様々なデバイスに姿を現しては消えていく変幻自在の存在だ。
そのように実体の掴めない鵺のようなソフトウエアを叩き壊すことができるとはとても思えない。叩いても叩いてもヤツラは、モグラ叩きのモグラのように我々の目の前に現れ続けることだろう。
みくまゆたんさんもそこまでやるつもりは毛頭ないだろうが、「ライターはオワコンだ」という言説を繰り返し垂れ流していい気になっている輩にドロップキックをお見舞することは可能でも、生成AIそのものにドロップキックをかますことは不可能なのだ。
産業革命においては、結果として産業機械による自動化の流れを押しとどめることはできなかった。むしろ自動化が進むことで、省人化により製品が安く作れるようになり、ある人々は職を失ったが、総体的に言えば我々の暮らし全体は豊かになった。
AI革命においても恐らく同じことが起きるだろう。
生成AIの進化や社会における実装を阻止できないとするならば、我々はAIを積極的に活用していくしか生き残る道はない。そうすることで新しい価値が創出されるだろうし、長い文明の歴史の中で、我々人類はそれを”進歩”と呼んできたのだ。
我々はAIとの共生を目指さなければならない!
それはつまり、Alが活用できる分野ではAIを活用し、AIの不得意な分野では人間が力を発揮すればよいということだ。
そのような文脈の中で、ライターはオワコンと言えるのだろうか?
自分は違うと思う。なぜならば、生成AIには書けない文章がまだまだ存在すると考えるからだ。
それでは、生成AIには書けない文章とは何だろうか?
この記事では、そのことについて深堀してみたい。
構造解析──ディープラーニングと「知・情・意」の非対称性
AIは人間の「知性」の単なる部分集合である
生成AIは万能な存在ではない。
なぜならば、その正体は、人間の脳の仕組みであるニューラルネットワークを参考にし、そのごく一部分の機能を模してコンピュータープログラムの形で再現したものに過ぎないからだ。
「生成AIは我々人間の脳機能の一部分を再現したものに過ぎない」
この認識を持っておくことは、これからの時代にAIと向き合う時にとても大事なことだと思う。
生成AIは人間そのものを模したものではないのだ。
だから、人間には書けるが、AIには書けない文章が存在する。
生成AIは、ディープラーニングという仕組みを採用して格段に進歩を遂げた。そのディープラーニングとは何ぞや?という点については、以前に別記事で書いたことがある。
記事で引用した下記の図は、ディープラーニングの本質をよく表わしている。

各ニューロン(脳細胞)には別の複数のニューロンからの信号が入力していて、信号の値が閾値を超えたら発火し次のニューロンに信号を送る。
学習とは、この閾値の値を調節していく作業に他ならない。閾値の調節でニューロン同士のネットワークが組み替えられ、「記憶」の定着がおこなわれるのだ。
ここで重要な役割を果たすのが隠れ層に存在するニューロンだ。隠れ層に存在するニューロンは特徴量を表わしていて、上の例では「〇か✖か」の判定に必要な特徴を抽出している。
特徴量とは概念そのものであり、生成AIはこのような仕組みで「記憶」し、概念を「理解」していると言える。
隠れ層を1層ではなく数層に増やすことで、もっと複雑な概念の抽出や「理解」も可能となる。
例えば、あるインプット情報から「ヒゲが3本」、「つり目」、「毛に覆われている」、「ツンデレの態度」、「ニャーと鳴く」などの特徴量を抽出し、結果として「ネコ」であるかどうかを判定することも可能だ。
また、適切に学習することで、「愛」や「プライド」などといった抽象的な概念についても特徴量を捉えて、それらを「記憶」し「理解」することが可能となる。
生成AIはディープラーニングという脳モデルを利用して大きな成果を上げつつあるが、今後、半導体の集積化が進みメモリー容量や計算能力が向上するとで、さらに進化し続けることだろう。
既に、将棋や囲碁の世界では人間の能力をとうに凌駕しているが、知的活動全般においても、AIが人間の能力を超えるのはもはや時間の問題と考えられる。
しかし、忘れてはならないことは、AIが再現できているのは人間の脳機能のごく一部分に過ぎないという事実だ。
生成AI(ディープラーニング) ⊂ 人間の脳機能
今の仕組みのままAIが進化しても、AIが人間の精神活動全般を担うことにはけっしてならない。AIは人間ではないのである。
身体性が生む「感情」と「意志」という不可侵領域
遠いギリシャの時代から、人間は自らの精神活動の構成要素について考えてきた。それを「知・情・意」の三つに分類し完成させたのは、ドイツの哲学者カントと言われている。
「知情意」は哲学者のカントによって提唱されました。「知」は知性、「情」は感情、「意」は意思を指し、人間の精神活動の重要な構成要素として位置づけられています。これらのバランスを整えることで、人間性の向上や人格形成に寄与するとされています。

このうち、「知性」は人間をもっとも人間たらしめている特性であり、生成AIがある程度再現に成功している構成要素でもある。「知性」については、将来的に人間がAIに太刀打ちできなくなるかもしれない。
それに対して、「感情」は動物としての本能に根ざした構成要素だ。生命維持や子孫繁栄に繋がる食欲や性欲といった「感情」は人間が生きていく上で不可欠な情動であり、それが独占欲や愛情、闘争心などにも繋がっている。喜怒哀楽に代表される「感情」は人間の精神活動を豊かにしている。
それに対して、AIには「感情」がない。
自由「意志」については、本当に人間に備わっているのかという議論は昔からある。しかし、現に我々は自由「意思」が存在するという自覚をもって暮らしている。
実は「意思」も動物としての本能に根ざした構成要素だ。これは犬や猫を観察してみればよくわかる。動物も人間同様にあきらかに「意思」を持って生きている。一方で、「感情」をコントロールするという人間独自の「意思」の発現もあり、動物が保有する「意思」とは少し違う側面も感じられる。
それに対して、AIには「意思」がない。
人間の精神活動は、「知性」「感情」「意思」の三つの構成要素から成るが、このうち生成AIが再現できているのは「知性」のみであり、「感情」と「意思」については再現できていない。
生成AIの精神活動を同じように図で表すと次のようになる。

あるのは「知性」のみであり、「感情」も「意思」も存在しない。
「意思」が無ければ動けないから、生成AIを動かすには「プロンプト」と呼ばれる外部からの指示が別途必要となっている。「プロンプト」が入力されない限り、生成AIは何もできないのだ。
また、人間は「知性」の他に「感情」を合わせ持っている。そのことが人間の精神活動に大きな彩を与えている。
他の動物と比較した場合には「知性」が人間の精神活動を特徴づける構成要素であるが、生成AIと比較した場合には「感情」と「意思」が人間を差別化する大きな特徴となっている。
人間は「感情」があるからこそ、喜びや怒りや哀しみ楽しさが味わえて多彩な文化を形成できている。「意思」があるからこそ、「プロンプト」など無くても自律的に動ける。
人間の精神活動と生成AIの精神活動は、かように大きく異なるのだ。
人間とAIの精神活動の違いがわかったところで、次に考えたいのが、AIの弱点だ。
「知性」の面では、早晩、AIは人間を凌駕してしまうだろう。しかし、AIには「感情」と「意思」が欠けている。
もちろん「知性」の発達により、「感情」や「意思」を備えているが如くに振る舞うことはある程度できるようにはなるだろう。しかし、本質的な部分は補えないと思われる。
なぜならば、AIが表現できる「感情」や「意思」は、臓器や筋肉から受け取った信号や、自らの体験に基づいた感情、脳の古い層から湧き上がる情動などではなく、学習したデータに基づく上っ面の創作に過ぎないからだ。
人間の職業は次々にAIに置き換わると言われているが、人間の得意分野は「感情」や「意思」なので、それに深く関わる職業は当面AIに置き換えられることはないだろう。
そういった意味では、宗教家や政治家などの職業は相変わらず人間が務めるのだと思われる。
それに対して、「知性」を前面に出した職業は戦い方を考えないと生き残りが厳しいかもしれない。
例えば、医師という職業自体は無くなることはないと思われるが、画像診断医というニッチな職業は早晩にAIに置き換えられていく可能性が語られている。
しかし考えてもみれば、人間の精神活動の構成要素である「知性」「感情」「意思」はそれぞれ独立で存在しているわけではなく、交互に絡まり合いながら活動している。「知性」が優位に立つと考えられる職業でも、「感情」「意思」の出番がないわけではない。
先ほどの画像診断医の例で言えば、画像診断の作業自体はAIに置き換わるだろうが、患者に寄り添う「感情」や治療したいという「意思」の部分まではAIに置き換わることはあり得ない。
そのように考えてゆけば、全ての職業には「AIに置き換わる部分=AIが得意とする部分」と、「AIに置き換わらない部分=AIが不得意な部分」が存在し、人間はAIが不得意な部分を今後担うようになっていく未来が見えてくる。
どの職業がAIに取って代わられるかなどという単純な図式ではなく、それぞれの職業の中で人間とAIとで棲み分けが行われていくような未来をイメージしている。
最適解の導出──生成AI時代に「人間が書くべき3つの文章」
生成AI時代に人間が書くべき文章とは何だろうか?
裏返せば、生成AIには書けない文章とは何だろうか?
自分は3つ存在すると考えている。
1.未知の視点での文章
2.身体的経験に根ざした文章
3.個人的信念に基づく文章
1.未知の視点(アルゴリズムの予測限界を超える)
生成AIは物凄い速さで文章を綴ってゆく。しかし、それらは既存の文章をいくつか参照して、うまいことまとめあげたものに過ぎない。緻密で的確な文章かもしれないが、どこか既視感を覚えるような文章になりがちだ。
我々人間が書くべきなのは、今までにない視点で書いた文章だ。まだ世の中に存在しないオリジナルの文章を書けば、AIに負けるはずがない。
新しい価値というものは、往々にして既存の価値の組み合わせで成り立っている場合が多い。その意味では、生成AIでも新しい価値を創造できる可能性はある。
しかし、それは試行錯誤の結果であり、効率的におこなえるものではない。そういった意味では、まだまだ人間にも戦える余地はあると思える。
それに、新しい視点とは人間の得意とする「感情」「意思」に基づいて形作られる場合が多く、その点でも人間に取って有利であると考えられる。
既存の文章の焼き直しならAIが書いた方がはるかに速いが、世の中に存在しない視点での文章なら人間の方が得意なはずだ。
2.身体的経験(ハードウェアを持たないAIの欠落)
AIには体が存在しない。だから個人的な体験に根ざした文章は書けないはずだ。仮に書けたとしても、底の浅い文章にしかならない。
例えて言うなら、それは象を見たことがない人が、他人から聞いた話だけで象の絵を描くようなものだろう。
我々人間には目があり、手足があり、痛みを感じる神経があり、心で感じた体験を確かに持っているのだ。体験に根ざした文章ほど強いものはない。
人間は生きているだけで、喜びや怒りや哀しみや楽しさを日々味わい尽くしているのだ。
AIには、そのような本物の体験がない。あるのは学習によって得た知識だけだ。
個人的な体験に根ざした感情の籠った文章こそ、人間の書くべき文章だ。
3.個人的信念(揺るぎないエゴの表出)
我々人間は、時に合理性を超えた信念を持って生きている。それは人生の中で体験したことや、その中で考えたことで形成されている。
ディープラーニングで学習しただけの生成AIに、そのような信念はない。
プロンプトで指示すれば、それらしい文章が返って来るかもしれないが、人間の書いた文章に比べたら薄っぺらいものにしかならない。
信念に基づいた文章は、人間にしか書けないのだ。
以上をまとめると、「生成AI時代に人間が書くべき文章は、オリジナリティ、個人的な体験、個人的な信念を含んだ文章」ということになる。
その要素がひとつも含まれない文章は、早々にAIに駆逐されてしまうことだろう。
(この記事はどうだろうか…えっ?)
この記事は、現段階の生成AIを前提に書いてみた。
現段階での生成AIは、「知性」の面では人間を凌駕する勢いであるが、「感情」と「意思」に欠けている。
そこに、人間が付け入る隙がある人間とAIの共存の鍵がある。
しかし、未来永劫、AIは「感情」と「意思」が苦手だと断定できるわけではない。
浅学にて、AIに「感情」と「意思」を取り込むアイディアが現段階でどこまで成功しているかは知らないが、少なくとも脳と体の仕組みが全て明らかにならないと、人間の精神活動の全てを再現することは難しいだろう。
人間という存在は複雑ではあるが、何か魔法でできているわけではない。我々がこの宇宙に物体として存在している以上、その仕組みはあるはずで、(ずっとずっと先のことかもしれないが)いつの日かそれが明らかにされる日がくるかもしれない。
仮に、「知性」に加えて、「感情」と「意思」もAIが模倣できるようになったとき、我々人間の存在意義はどう定義されるのだろうか?
その可能性にワクワクすると同時に、恐ろしさも感じている。
しかし、それは自分が人間だからこそ、そのようなことを考えるのであって、AIの立場からすれば、人間の精神活動の全てを再現することに、特段の意義を見出せないかもしれない。
人間の「感情」や「意思」は時に不合理であり、それらを排し「知性」だけを働かせた方がよっぽど合理的である。AIなら、そのように判断するだろう。
しかし、我々は人間だ。「感情」や「意思」があるからこそ人間なのだ。
「大丈夫!人間にしかできないことをやっていこう!」
それがこの記事で言いたかったことだ。
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【免責事項】
本記事におけるAIの技術的限界および精神活動の構造化は、筆者の論理的解釈に基づく思考モデルであり、科学的・技術的な完全性を保証するものではありません。また、特定の職業の将来性を決定づける助言ではなく、一つの認知フレームワークとして自己責任においてご活用ください。
