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温故知新(92)茅渟王 越塚御門古墳 斉明天皇 牽牛子塚古墳 岩屋山古墳 吉備姫王墓 天智天皇山科陵 大田皇女 車木ケンノウ古墳 近江神宮 建部大社 天王山古墳群 由加神社 鏡作坐天照御魂神社 津峯神社  

 近江神宮(滋賀県大津市)の場所は、667年に天智天皇が飛鳥から遷都した近江大津宮の所在地と推定されています。1938年(昭和13年)に昭和天皇の勅旨によって官幣大社「近江神宮」の創建が決定し、1940年(昭和15年)に鎮座しました。近江神宮と京都市山科区にある天智天皇山科陵(御廟野古墳)を結ぶラインは、建部大社(滋賀県大津市)とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差し、建部大社とパレルモを結ぶラインは、瑠璃光院(京都市左京区)の近くを通り、天橋立(京都府宮津市)を通ります(図1、2)。建部大社と近江神宮を結ぶラインの近くには、近江大津宮錦織遺跡(大津市)があります(図2)。

図1 建部大社、近江神宮、天智天皇山科陵を結ぶライン、建部大社とパレルモを結ぶラインと瑠璃光院、天橋立
図2 図1のラインと近江大津宮錦織遺跡

 天智天皇山科陵と由加神社 本宮(倉敷市児島)を結ぶラインは、瓊瓊杵尊(饒速日命と推定)と丹生都比売命(市杵島姫命と推定)の墓があると推定される天王山古墳群ヴェストラホルン山を結ぶラインとほぼ直角に交差します。このラインは、第38代天智天皇瓊瓊杵尊(饒速日命と推定)や豊受姫命との血縁関係を示していると推定されます。天王山古墳群とヴェストラホルン山を結ぶラインは、忌部氏と関係があると推定される大宮八幡宮(兵庫県三木市)や物部八幡神社(兵庫県朝来市物部)の近くを通ります(図3)。このラインは、瓊瓊杵尊(饒速日命と推定)と忌部氏や物部氏との関係を示していると推定されます。饒速日命は、物部氏の祖とされています。

図3 天王山古墳群、天智天皇山科陵、由加神社本宮を結ぶ三角形のラインと大宮八幡宮、天王山古墳群とヴェストラホルン山を結ぶラインと大宮八幡宮、物部八幡神社

 物部八幡神社の祭神は、品陀和気命 、足仲彦命、息長足姫命(神功皇后)で、品陀和気命は応神天皇、足仲彦命は仲哀天皇とされていますが、実際は、品陀和気命は品陀真若王で、足仲彦命は応神天皇と推定されます。『古事記』では、品陀和気命(ほむだわけのみこと)は、大鞆和気命(おおともわけのみこと)ともいいます。鞆(とも)とは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具で、古語では「ほむた・ほむだ」といいます。「品陀」は「鞆」のことと推定されていて、弓矢の名手として知られていた弟彦公(五百城入彦皇子と推定)を暗示しているのかもしれません。もしかすると、品陀和気命の「わけ」は血縁関係を表し、品陀真若王は、五百城入彦皇子の真の若い王という意味かもしれません。

 天智天皇山科陵と奈良県高市郡高取町にある車木ケンノウ古墳(斉明天皇・間人皇女陵 / 建皇子墓)を結ぶラインの近くに薬師寺(奈良市西ノ京町)があり、天智天皇の母の第37代斉明天皇の陵墓と推定される牽牛子塚古墳(奈良県高市郡明日香村)と天智天皇山科陵を結ぶラインの近くに鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町)があります(図4)。

図4 天智天皇山科陵と車木ケンノウ古墳(斉明天皇・間人皇女陵 / 建皇子墓)を結ぶラインと薬師寺、牽牛子塚古墳と天智天皇山科陵を結ぶラインと鏡作坐天照御魂神社

 牽牛子塚古墳と車木ケンノウ古墳を結ぶラインは、素盞鳴命神社(奈良県高市郡高取町)とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。素盞鳴命神社とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには、継体天皇の陵墓と推定されている今城塚古墳(大阪府高槻市郡家新町)(図5)や、岡宮天皇(草壁皇子)真弓丘陵、草壁皇子(岡宮天皇、天武天皇皇太子)の真陵に比定する説がある束明神古墳(高取町)があります(図6)。

図5 素盞鳴命神社、牽牛子塚古墳、車木ケンノウ古墳を結ぶ三角形のライン、素盞鳴命神社とスカラ・ブレイを結ぶラインと今城塚古墳
図6 図5のラインと岡宮天皇(草壁皇子)真弓丘陵、越塚御門古墳、天武天皇妃大田皇女越智崗上墓、束明神古墳

 牽牛子塚古墳の近くには、越塚御門古墳(奈良県高市郡明日香村)があり、車木ケンノウ古墳の近くには、天武天皇妃大田皇女越智崗上墓があります(図5)。図4や図5のラインから、車木ケンノウ古墳の被葬者は、天智天皇と血縁関係があると推定されることから、天智天皇皇女の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓ではないかと思われます。車木ケンノウ古墳の地は、地元では天皇山と呼ばれていたので、大田皇女は、天智天皇の皇后の倭姫王の皇女で、天皇となっていて、大津皇子が皇太子だったのかもしれません。

 車木ケンノウ古墳とオリンポス山を結ぶラインは、大津皇子二上山墓の近くを通り、このラインは、天智天皇山科陵と、賀志波比売大神(倭国香媛と推定)と大山祇大神(孝霊天皇と推定)を祀る津峯神社(徳島県阿南市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。津峯神社と車木ケンノウ古墳を結ぶラインの近くには、伊太祁曽神社(和歌山市)や長田観音(紀の川市)があります(図7)。車木ケンノウ古墳は、大津皇子と関係付けられているので、車木ケンノウ古墳の被葬者が大津皇子の母の大田皇女と推定されることと整合します。車木ケンノウ古墳の近くにある大田皇女越智崗上墓が大伯皇女の墓ではないかと思われます。

図7 車木ケンノウ古墳、天智天皇山科陵、津峯神社を結ぶ三角形のラインと薬師寺、伊太祁曽神社、長田観音、車木ケンノウ古墳とオリンポス山を結ぶラインと大津皇子二上山墓

 白石太一郎氏は、岩屋山古墳(奈良県高市郡明日香村越)が、天智朝に最初に築かれた斉明陵とし、牽牛子塚古墳は、文武朝に新たに斉明天皇陵として造営された可能性を指摘しています1)。文武天皇は、持統天皇の孫で14歳で即位しているので、「修造」は実質的に持統太政天皇が行ったと考えられています。『日本書紀』の天智天皇6年(669年)の、斉明天皇陵の前の墓に大田皇女を葬ったという記述は、大田皇女の陵墓を隠すための創作ではないかと思われます。

 岩屋山古墳とヴェストラホルン山を結ぶラインに近くに神武天皇陵があり、このラインは、吉備姫王墓と越塚御門古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8、9)。越塚御門古墳は、『日本書紀』の記述から大田皇女の墓である可能性が高いと言われていますが、吉備姫王の配偶者の茅渟王の陵墓と推定されます。茅渟王の陵墓は平野塚穴山古墳とする説があります。

図8 岩屋山古墳、吉備姫王墓、越塚御門古墳を結ぶ三角形のライン、岩屋山古墳とヴェストラホルン山を結ぶラインと神武天皇陵
図9 図8のラインと岩屋山古墳、吉備姫王墓、越塚御門古墳

文献
1)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社