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温故知新(140)大國魂神社(いわき市) 建許侶命 甲塚古墳 金冠塚古墳 國魂神社 古寺山白山寺 八大龍王宮 アテネ 姫塚古墳 大国玉神社 彌彦神社 オリンポス山 入の沢遺跡 桝形囲貝塚 マラケシュ 多賀城 黒坂命 大塚古墳1号墳 鹿島神宮 常陸国総社宮 古代都市セリヌス

 福島県いわき市の大國魂神社に参拝しました(写真トップ、1~5)。

写真1 大國魂神社 鳥居と樹齢1000年といわれる御神木の大杉
写真2 大國魂神社 拝殿
写真3 大國魂神社 本殿
写真4 大黒様とえびす様の像
写真5 大國魂神社の御朱印

 大國魂神社(いわき市)の近くに6世紀後半~7世紀後半の築造と推定されている甲塚古墳(かぶとづかこふん)があります(写真6、7)。当地は石城国造(いわきこくぞう)の根拠地であったと推定されていて、養老2年(718年)から数年の間、石城国が設置されています。『先代旧事本紀』「国造本紀」では、成務朝(第13代成務天皇(倭建命と推定)の時代)に建許侶命(たけころのみこと)を国造に定めたことに始まるとされます。伝承によれば甲塚古墳は当時の国造 建許侶命が葬られ、大国魂神社の神官である国魂家は建許侶命の子孫とも伝えられています。石城氏(いわきうじ、姓は直)は、 「国造本紀」には「天津彦根命の後裔の建許侶命が石城国造の祖」、『古事記』神武段には、「神武天皇の子の神八井耳命意冨臣・道奥石城国造等の祖」と記されています。

写真6 甲塚古墳
写真7 甲塚古墳の説明板

 甲塚古墳と同時期の金冠塚古墳(いわき市錦町)は、かつての菊多郡にあり、大国主神、須勢理姫命、少彦名命を祀る國魂神社(いわき市勿来町)は、菊多国造の創祀によるとされているようです。

 大國魂神社と國魂神社を結ぶラインは、豊玉姫命(倭迹迹日百襲姫命、須勢理姫命、卑弥呼と推定)を祀っていると推定される八大龍王宮と、「縄文のビーナス」がみつかった棚畑遺跡とつながる「アトランティス」の都市だったと推定されるアテネを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、行基の開基と伝えられる古寺山白山寺(福島県須賀川市)の近くを通ります(図1)。大國魂神社(いわき市)は、やまとのくに(邪馬台国)の第8代孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳とつながっているので、石城国造や菊多国造は、大國魂神社や國魂神社の祭神の少彦名命(孝元天皇と倭迹迹日百襲姫命の皇子の少名日子建猪心命(少彦男心命)と推定)の後裔と推定されます。

図1 八大龍王宮、大國魂神社、國魂神社(勿来町)を結ぶ三角形のラインと甲塚古墳、金冠塚古墳、八大龍王宮とアテネを結ぶラインと古寺山白山寺

 そこで、少名日子建猪心命(少彦男心命)と推定)の陵墓と推定される姫塚古墳(茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)と、甲塚古墳の関係を調べてみました。甲塚古墳と茨城県桜川市の大国玉神社を結ぶラインは、國魂神社(いわき市勿来町)の近くを通り、姫塚古墳とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。また、後者のラインは、彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)の近くを通ります(図2)。

図2 姫塚古墳、甲塚古墳、大国玉神社(桜川市)を結ぶ三角形のラインと國魂神社(勿来町)、姫塚古墳とオリンポス山を結ぶラインと彌彦神社

 品陀真若王(出雲建、倭建命と推定)と関係があると推定される入の沢遺跡(宮城県栗原市)と彌彦神社を結ぶラインは、大國魂神社(いわき市)と「アトランティス」の都市があったと推定され、ベルベル語で「神の国」を意味するマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。大國魂神社と入の沢遺跡を結ぶラインの近くに、2100年ほど前のものと推定される稲籾の痕跡がある土器(籾痕土器)がみつかった桝形囲貝塚や多賀城跡(宮城県多賀城市)があります(図3)。

図3 大國魂神社(いわき市)、入の沢遺跡、彌彦神社を結ぶ三角形のラインと多賀城跡、桝形囲貝塚、大國魂神社とマラケシュを結ぶライン

 加賀城市は、周辺に塩釜市、日本三景の松島などがあり、縄文時代前期、約6000年前から人が住んでいたようです。弥生時代の桝形囲貝塚など海岸部に近い遺跡では塩作りが行われていました。古墳時代には、前期(3世紀後半~4世紀)の段階から、護岸施設等に高度な土木技術が用いられ、中期(5世紀)には鉄器生産が行われていました。後期(6・7世紀)になると溝や材木塀で区画された施設が出現し、多量の農具を保有する有力者の存在が見られるようになります。

 多賀城は、奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として塩釜丘陵上に設置した城で、平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能しました。

 『常陸国風土記』には、ヤマトからの派遣将軍の伝承も載っていて、茨城郡の記事に国栖・佐伯(土蜘蛛と同じく、大和王権が各地の服属していない先住勢力を呼んだ呼称)を掃討した黒坂命は、信太郡の記事では「陸奥の蝦夷を征討」したとあるようです1)。また、茨城県稲敷郡美浦村の大塚古墳1号墳弁天塚古墳)を黒坂命の墓とする伝承があります。

 姫塚古墳と大塚古墳1号墳を結ぶラインは、鹿島神宮 奥宮(鹿嶋市)とアナトリア半島の古代都市セリヌス(Selinus ancient city)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは常陸国総社宮(石岡市)の近くを通ります(図4)。

図4 鹿島神宮 奥宮、姫塚古墳、弁天塚古墳(大塚1号墳)を結ぶ三角形のライン、鹿島神宮 奥宮と古代都市セリヌス(アナトリア半島)を結ぶラインと常陸国総社宮

 このラインから、神八井耳命を祖とする多氏の一族とされる黒坂命も、少名日子建猪心命(少彦男心命)と推定)と血縁関係があったと推定されます。投馬国と推定される青谷上寺地遺跡の人骨のDNA解析結果やレイラインから、「やまとのくに(邪馬台国)」は縄文人と弥生人の混血氏族の国と推定され、黒坂命が蝦夷を征討したという『常陸国風土記』の記事は創作ではないかと思われます。風土記は、養老3年(719年)~7年頃まで国守であった藤原宇合が最終的編纂をしたと考えられています1)。

 日本人のDNA分析によって、東北地方や群馬、島根、鹿児島、沖縄では、縄文人由来のDNAを比較的多く持っていることが示されています。弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、また古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ渡来してその度に混血があったと推定されています。

文献
1)新古代史の会(編) 2025 「歩いて学ぶ日本古代史1 邪馬台国から大化の改新まで」 吉川弘文館