温故知新(145)壬申の乱 大友皇子(伊賀皇子 弘文天皇) 伊賀采女(伊賀宅子娘) 開化天皇(伊香色雄命)
天智天皇山科陵 弘文天皇長等山前陵 逢坂山関 貴船神社奥宮 モン・サン・ミシェル 轟山薬師寺 沖の白石 石座神社 近江神宮 クサール・ヌアイラ 石坐神社 オリンポス山 舟木石上神社 熊野速玉大社 意賀美神社 ヴェストラホルン山 穂積神社 チャタル・ヒュユク 聖ミカエルの山 藤原道長 紫式部
壬申の乱
第38代天智天皇は、実子の大友皇子(伊賀皇子、第39代弘文天皇)に皇位を譲りたいと考えていましたが、その意図を察した弟の大海人皇子(後の第40代天武天皇)は、出家を理由に吉野に隠遁します。そして、672年に大海人皇子は、東国への交通の要所である不破関と鈴鹿関を封鎖し、壬申の乱が勃発します1)。
『日本書紀』には、蘇我氏と血縁のある鸕野讃良皇女(大海人の妻で後の第41代持統天皇)が大海人皇子と「ともに謀を定め」たとありますが、倉本一宏氏は、鸕野讃良皇女が皇位継承のために、天智天皇の死後に、大友皇子を討つことを説得したのではないかという説を主張しています2)。天武天皇は、679年に、壬申の乱のような後継者をめぐる争いが起きないよう「吉野の盟約」を行います。皇子の序列は、鸕野讃良皇女の子の草壁皇子を最初とし、大田皇女の子の大津皇子を2番目、最年長の高市皇子を3番目としました。レイラインから、大田皇女の母は、天智天皇の后の倭姫王と推定され、本来は大津皇子が1番目だったと推定されます。
天智天皇山科陵と弘文天皇長等山前陵
大友皇子(弘文天皇)の陵墓は宮内庁により長等山前陵(滋賀県大津市)と定められています。弘文天皇長等山前陵と天智天皇山科陵を結ぶラインは、逢坂山関跡とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、龍穴のある貴船神社奥宮(京都市左京区鞍馬貴船町)の近くを通ります(図1)。

伊賀采女(伊賀宅子娘)と開化天皇(伊香色雄命)
大友皇子の生母の伊賀采女(伊賀宅子娘)は、三重県伊賀市鳳凰寺(ぼうじ)の出身で、伊賀の有力豪族・伊賀国造家の出身とされています。伊賀市鳳凰寺にある轟山薬師寺境内には、伊賀采女が、わが子の冥福を祈って郷里に建立したといわれる鳳凰寺廃寺跡の礎石が遺っています。轟山薬師寺は、開化天皇(伊香色雄命(いかがしこおのみこと)と推定)の陵墓と推定される椿井大塚山古墳(京都府木津川市)とほぼ同緯度にあります(図2)。また、石座神社(京都市左京区岩倉上蔵町)には木造伊賀采女宅子媛坐像が伝わっています。
天皇が采女を身近に置くのは、もとは国々の祭祀(さいし)をになう女を得て、地方の祭祀権を掌握することにあった。逆に、神と天皇のみに仕える特別な女性としての憧れが、人を高揚にみちびいた。
第9代開化天皇と関係があると推定される沖の白石(船木三ッ石)と石座神社を結ぶラインは、轟山薬師寺とクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差します。石座神社と轟山薬師寺を結ぶラインは近江神宮(滋賀県大津市)を通ります(図2)。

志賀県南部には、開化天皇の皇子・彦坐王の後裔とされる「治田連(はったのむらじ)」の祀る萱野神社(大津市大萱)や石坐神社(大津市西の庄)などがあります。石坐神社とオリンポス山を結ぶラインは、崇道神社(京都市左京区)、石座神社、水分神社(京都府綾部市)の近くを通ります(図3)。このラインから石坐神社と石座神社は、関係があると推定されます。

轟山薬師寺と開化天皇と関係があると推定される舟木石上神社(兵庫県淡路市)を結ぶラインは、開化天皇と関係があると推定される熊野速玉大社(和歌山県新宮市)とヴェストラホルン(Vestrahorn)山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインの近くには、伊香色雄命ゆかりの意賀美神社(大阪府枚方市)があります(図4)。

これらのラインから、伊賀采女(伊賀宅子娘)や大友皇子(伊賀皇子)は、開化天皇(伊香色雄命と推定)と血縁関係があると推定されます。伊香色雄命は『古事記』では伊迦賀色許男命と表記するので、「伊賀」は、開化天皇の名前に由来すると思われます。
物部氏と開化天皇
三重県四日市市にある穂積神社は、物部氏族の正統とされる穂積氏の氏神で3)、饒速日尊、伊迦賀色許男命、菅原道眞を祀っていますが、社家は船木氏だったようです。三重県三重郡菰野町田口にある穂積神社(旧跡)は延喜式内社の由緒を誇り、饒速日命を祀り穂積氏の祖神として崇められていました。チャタル・ヒュユクと穂積神社(旧跡)を結ぶラインの近くには、沖の白石(船木三ッ石)があります(図5)。また、穂積神社(旧跡)の近くにある福王山(図5)は、聖徳太子崇敬の霊場として知られています。

穂積神社(旧跡)と舟木石上神社を結ぶラインは、熊野速玉大社と聖ミカエルの山を結ぶラインを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。

穂積氏は、熊野国造家や末羅国造家と同祖とされ、子孫の一部は「鈴木」を称し、烏紋(三本足の烏)は熊野権現の神使とされ、神官鈴木氏とその後裔が家の紋として用いたようです。
轟山 薬師寺と穂積神社(旧跡)を結ぶラインの近くには、片山神社(三重県亀山市)があり、穂積神社(旧跡)と椿井大塚山古墳を結ぶラインは、轟山 薬師寺とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。後者のラインの近くには、菩提寺山(滋賀県野洲市)があります(図7)。

これらのラインから、開化天皇(伊香色雄命と推定)と伊賀采女(伊賀宅子娘)と穂積氏は、血縁関係があったと推定されます。また、穂積神社の祭神の饒速日尊は、瓊瓊杵尊で、丹生氏の系図にある久志多麻命(大名草比古命)と推定され、奈良県高市郡明日香村にある櫛玉神社の祭神の櫛玉彦命と推定されます。
大友皇子(伊賀皇子)は、1870年(明治3年)に漢風諡号 弘文天皇を贈られ、歴代天皇に列せられています。藤原道長(時姫の息子 詮子の弟)は大友皇子の子孫の一人で、摂関家等にもその血が流れています。紫式部は和珥氏の血を引いているようなので、藤原道長と気が合ったのかもしれません。
大友皇子の大友の名の由来は、百済人の後裔と称した大友村主が養育したためと考えられています。伊賀臣は、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では大彦命の後裔とされていますが、大彦命の陵墓は奈良県天理市柳本町にある黒塚古墳と推定されるので創作と推定されます。伊賀臣を大彦命の後裔としたのは、物部氏の祖で饒速日命の子孫である伊香色雄命(開化天皇と推定)と伊賀臣の関係を隠すためだったのではないかと思われます。
文献
1)瀧音能之(監修) 2021 「地図でスッと頭に入る 古代史」 昭文社
2)倉本一宏 2007 「戦争の日本史2 壬申の乱」 吉川弘文館
3)原田常治 1984 「古代日本正史」 同志社
