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バブル崩壊と「失わされた30年」~米国と日銀による日本経済破壊工作

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だった時代

「失われた30年」のために先進国どころか、OECDからも落ちこぼれそうな「後進国」に凋落しつつある尾羽打ち枯らしたような超衰退国家日本。しかし、ほんの一昔前の1980年代後半から1990年代前半、日本は世界第二位の経済大国にまで上り詰めた時代があった。

あくまで相対的なものだが、1995年の日本の名目GDPが世界経済に占めるシェアは米国に次いで何と約17.5%!一人あたりGNI(国民総所得)も1988年には米国を抜き、G7のトップだった。

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今となっては信じられない話だが、当時、日本の経済力はまさに飛ぶ鳥を落とす日の出の勢い。特に1986年から始まったバブル景気で株価や地価が急騰、山手線内側の地価でアメリカ全土が買えるなどという景気の良い試算が話題になり、金余りの日本企業は投資先を求め先を争って海外に進出。

三菱地所がロックフェラーセンター、1982年に「ホテルニュージャパン火災事件」を起こした横井秀樹はドナルド・トランプと共同でエンパイア・ステート・ビル、ソニーがコロンビア映画、松下電器がユニバーサル映画を傘下に持つMCA Inc.を買収するなど世界中の不動産や企業を買い漁った。

因みにソニーが買収したコロンビア映画は、債務も含めると約48億ドル。
松下電器によるMCA Inc.買収額はこれをさらに上回る約66億ドル(当時の為替レートで約7800億円)に達し、日本企業による米国企業買収として当時史上最高額だった。

当時、日本企業がが買い漁った世界の不動産や企業の中で今でも保持し続けている目ぼしい「物件」は、ソニーが買収したコロンビア映画 (現「ソニー・ピクチャーズ」)くらいか。

特に米国の象徴とも言うべきロックフェラーセンターの買収は米国人の誇りをいたく傷つけて神経を逆なでし、「第二の真珠湾奇襲攻撃」と大きな怒りを買った。

米国の社会学者エズラ・ボーゲルに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられて有頂天になり舞い上がっていたため、数年後に1000倍返しされることになろうとは夢にも思わなかっただろう。

しかし、GDP世界シェアは1994を頂点にその後は急坂を転がり落ちるように衰退の路をまっしぐら。人口が多いので現在でもかろうじてGDP第三位を保ってはいるものの、世界シェアは僅か5.6%にまで縮小。

現在、中国の世界GDPシェアは25年前の日本とほぼ同じ水準で、米国が躍起になって中国叩きを行っているのも頷ける。

早晩、人口が日本の3分の2しかないドイツや発展途上国インドに抜かれる事は必至。

まさに「天国と地獄」とはこの事だが、日本の急激な没落の裏には一体何があったのだろう?

米国による日本の「産業経済構造改造計画」と「前川リポート」

自国の経済的覇権を揺るがす存在として日本の経済力に脅威に感じていた米国は、高度成長と国産競争力の源が「戦時経済体制」=「日本型経営システム」であると分析。日本の特異な経済体制を各国と同じ「平時の経済体制」に転換改造する事を目論んだ。

為替相場のドル高是正・円高を容認した「プラザ合意」(1985)を皮切りに、日本の半導体産業を潰す「日米半導体協定」(1986)、日本に低金利を強制する「ルーブル合意」(1987)、さらには内政干渉同然の「日米構造協議」等で日本経済の構造改革を迫った。

「バブル崩壊」後の「改革」をめぐる日米協議では日本側も「対米年次改革要望書」を遠慮がちに提出してはいるが、どうでもいいような内容の上、毎回ほとんど無視されて何の成果も得られていない。

日本側だけが産業経済構造その他、国家の根幹に関わる部分の改革を約束させられるという極めて一方的なもので、ここでも宗主国に対しては何も言えない属国日本の情けない姿が露呈している。

プラザ合意に基づき、日銀はドル切り下げを実施。その結果、それまで1ドル236円(1985年9月)だった為替レートが、1年後(1986年9月)には1ドル154円まで円高ドル安が進んだ。たった1年間で為替レートが約35%も円高となり日本の輸出産業は大きなダメージを受けて円高不況に突入した。

プラザ合意では米国から10年間で40兆円の公共投資を要求されて、これを丸呑み。その結果、1990年代には合計400兆円(10年間×40兆円)の債務を背負わされることになった。世界一の日本の債務の大元を作ったのは、実は米国なのだ。

「プラザ合意」の翌年の1986年、「日本経済の構造改革を迫る具体策」が何と日本側から提案される。提案したのは、前川春雄日銀総裁。所謂「前川リポート」と呼ばれている「日本経済産業構造改造計画」だ。

        〈「前川リポート」の主な内容 〉                    〇内需拡大による海外製品の輸入促進(公定歩合の引き下げ、公共投資の拡大等によって景気を刺激し、外国製品の輸入を拡大する)          〇国際的に調和のとれた産業構造への転換(産業構造を戦時型から平時     型の「新自由主義経済体制」に転換することで日本企業の競争力を削ぐ)              〇規制緩和(外国企業の日本参入障壁を低くする)            〇金融自由化(外国金融機関が日本市場で活動しやすくする)       〇市場開放と対外投資の促進(外国企業や投資家の日本参入を促し、日   本の対外投資を促進する=外国に工場を作り現地労働者を雇用する)   〇為替相場安定のための協調介入(「プラザ合意」で決めた円高維持政策)                             ※「外国」とは、主に米国を指す

上記のようにその内容は全面的に米国の要求に応え、巨額の貿易赤字と財政赤字の「双子の赤字」に苦しんでいた米国を助けるための諸改革を早急に実施するよう日本政府に迫ったもの。(当時、日本は米国にとって最大の貿易赤字相手国=日米経済摩擦)

表向きは「日本の対米貿易の大幅輸出超過是正による日米貿易摩擦の解消のための具体案」という触れ込みだったが、よく読むとそれよりはずっと踏み込んだ日本の経済産業構造の根幹に関わる改革内容が並んでいるのに驚かされる。  

特に重要なのは、産業構造転換に関する1番目と2番目の項目。    
1で輸出に頼る外需型から内需型への構造転換を迫り、2では米国の要求に応えるために日本経済の強みになっていた戦時型の経済産業構造を平時型へと転換させ、当時最強だった日本の国際競争力を弱体化しようとした。

日本の「戦時経済体制」(1940年体制)とは

〇1938年総力戦遂行を目的とした「国家総動員法」が成立。
政府は議会の承認なしに産業経済だけでなく国民生活の全てを統制できるようになり、てんでんばらばらな「自由放任経済」から国家による「戦時統制経済体制」へ移行
・政府による銀行統制
・日銀による市中銀行に対する強力な窓口指導
間接金融・メインバンク制
・行政官庁が銀行を通して業界全体をコントロールする護送船団方式
・「賃金統制令」による定期昇給制度 
従業員を企業共同体の構成メンバーとする「産業報国会」の発足 
・「会社利益配当及資金融通令」により、それまでの株主中心主義から従業員中心主義へ移行⇒株主の権利や配当を抑制して、新規投資や社員の待遇改善に振り向ける⇒現在は新自由主義政策により「株主資本主義」が復活
・統制経済政策により、終身雇用制と年功序列賃金制が定着
・1938年、自営業者、農業従事者を対象に「国民健康保険制度」が創設
・1941年、「労働者年金保険法」(対象は工場で働く現場労働者)が創設
1944には事務系労働者も含めた「厚生年金保険法」に改正

〇「国家総動員法」成立以前の日本は自己責任論が幅を利かせる「市場原理主義の小さな政府」で、政府は企業の自由な経済活動を後押しした。これは現在の「新自由主義」に近いむき出しの自由放任強欲資本主義であり、企業に対する国家の統制や規制は非常に弱かった。

〇逆に「治安維持法」に基づく官憲による労働者や労働組合に対する締め付けや弾圧は激しく、ストライキなど労働者の諸権利や国民の基本的人権は厳しく制限されていた。自己責任が奨励され、1929年になってようやく貧困者対策として「救護法」が制定されたが、国家による社会保障は極めて不十分であった。

〇企業の勝手気ままな「自由放任経済体制」を総力戦遂行のための国家主義的「戦時統制経済体制」に変えようとしたのが岸信介、吉田茂、椎名悦三郎、永田鉄山 (陸軍軍務局長)らの所謂革新官僚。ソ連型の計画経済(五か年計画)を手本に日本の「全体主義統制経済国家」化を目指した。

〇これは「統制経済」による「富国強兵政策」だったが、勢い余って社会主義的な計画を立案公表したため、1941年、一部の革新官僚が共産主義的だとして検挙される事件を起こしている(企画院事件)。

〇「国民総動員法」による社会制度改革の結果、企業活動は国家の強い統制を受ける事になり、企業の経営方式も上記のように総動員体制に即した変更を余儀なくされた。企業は終身雇用制と年功序列制,、福利厚生などにより労働者に正社員としての身分や待遇を保証。これにより、労働者は企業に強い帰属意識を持ち忠誠を尽くす「経営家族主義」が広まった。

戦後も市中銀行に対する日銀の窓口指導、間接金融・メインバンク制、護送船団方式、企業別組合、経営家族主義、終身雇用制と年功序列制、定期昇給制度、利益を新規投資や従業員の昇給・待遇改善に振り向け、株主配当を抑制する等の「戦時経済体制」は温存された。統制的な戦後の「傾斜生産方式」を可能とするなど、日本の高度経済成長及び強い国際競争力の原動力として機能した。

「自分で自分の首を絞める」日銀は一体どこの国の中央銀行で、どこを見て仕事をしているのかと疑いたくなるが、「前川リポート」は米国のために日本の経済産業力を弱体化させ、日本を米国の経済的植民地にするというまさしく売国政策そのものだった。

「前川リポート」は当然のごとく米国にも強く支持されて大きな影響力をもち、その後の日本経済の構造転換は「前川リポート」が示したシナリオ通りに推移して行くことになりる。(前川総裁は、事前に米側とリポートの内容を摺り合せた可能性がある。)

日銀の自作自演によるバブルの創出と破壊

日銀は早速「前川リポート」の実現に取り掛かるが、その方法は実に巧妙なものだった。

1980年代後半、日銀は「プラザ合意」や「ルーブル合意」という外圧を利用し、「円高不況対策」の名目で公定歩合金利をそれまでの5.0%から1987年2月には2.50%に半減させるという前代未聞の大幅利下げによる極端な金融緩和を実施した。

日銀はこの超低金利政策を2年3か月もの間継続。
並行して各銀行への「窓口指導」によって市中への貸付を急速に拡大し、計画的に巨大な超インフレ「バブル景気」を創出する。

リチャード・A・ヴェルナー「日本における窓口指導と『バブル』の形成~証言方式を応用した実証分析」

上記は、一般国民にはほとんど知られていない日銀による非公式の金融政策「窓口指導」について多数の日銀職員や民間銀行関係者へのインタビューを元に分析した論文。

「窓口指導は金利よりも強力であり,公定歩合よりも強力である.直接効くからだ」(日銀担当者)という証言は重要。

日銀のたすき掛け人事~お飾りだった大蔵省出身日銀総裁

当時の日銀総裁は生え抜きの日銀出身者と財務省出身の官僚が交互に総裁に就任する「たすき掛け人事」が慣行となっていた。代々の大蔵省出身総裁は日銀の業務については精通していないため、実際の金融政策実務は次の生え抜き総裁候補や副総裁などの実力者が取り仕切っていた。

バブルが創出された時期の総裁は前川の後任である澄田智。当然、世間的には大幅な金融緩和でバブルを創成した主犯は澄田総裁という事になるのだが、澄田は大蔵事務次官の天下り組。

「窓口指導」などの日銀特有の金融政策テクニックは澄田に知らされておらず、万事「よきに計らえ」という「お飾り」でしかなかった。

この時、澄田の下で日銀を動かしていたのが次の総裁候補である三重野康や後に総裁になって大騒動を起こす事になる日銀理事福井俊彦(福井は「円のプリンス」として早くから総裁になる事が決まっていた」)らの日銀官僚。1986年の金融政策大幅緩和を主導してバブルを創成したのはこの二人だが、超低利政策の責任は総裁である澄田に被せられた。

バブルの光と闇

代々の大蔵省出身総裁には知らされていなかった「日銀窓口指導」によって市中への貸し出し大幅拡大を迫られた各銀行は、企業や個人に対して後の「貸し渋り」や「貸しはがし」とは正反対のまるで「押し貸し」まがいの強引な融資活動を活発化させる。

銀行が企業や個人に「名目は何でもいいので、好きなだけどんどん借りてほしい。」と無理やり勧誘し始めたのだ、

この結果、市中に溢れかえった円は利益を生むまでに時間がかかる基幹産業をスルーして、手っ取り早く投資が出来てリターンも早い不動産や株に向かった。当時、土地は「不動産神話」によって絶対に値下がりしないと信じられていた。

企業や個人投資家が我先にと不動産投機に走り、暴力団まがいの悪質な地上げ屋が横行して、社会問題化したのもこの頃だ。

例えば東京都の1㎡あたり平均土地価格が1985から1988年の僅か3年の間に約3倍になるなど全国の不動産価格が軒並み急騰。株価も1980年代前半には1万円台にも届かなかったものが、1989年末には38,915円の史上最高値をつけるなど空前の好景気が現出。

億ションや高級車、高額貴金属、57億円のゴッホの「ひまわり」などの絵画、1億円もする高額ゴルフ会員権が飛ぶように売れ、「マハラジャ」を筆頭に高級ディスコが一世を風靡するなど、日本中が華やかなバブル景気に沸き返った。バブルの熱気が最高潮に達した1990年には、大昭和製紙の会長がゴッホの「医師ガシェの肖像」を125億円で買収して世界を驚かせた。

三菱地所のアメリカロックフェラーセンター買収、ソニーによるコロムビア映画買収をはじめ、日本企業がだぶついたカネで世界中の目ぼしい不動物件産を手当たり次第に買い漁ったのもこの頃。

不動産屋は「今なら購入時の2倍以上の高値であなたのマンションを買い取りますよ」と持ち家のある庶民に手あたり次第電話をかけまくって物件をかき集め、それを元値の3倍で転売した。

勿論、強い光が当たれば影の方も濃くなるのは物の道理。日本中が空前の好景気に浮かれている裏では、バブルの副作用がじわじわ進行していた。

バブルの恩恵に預かれたのは株や不動産、貴金属その他の実物資産を保有する企業や資産家だけで、それ以外の国民にとってよい事は「世の中の明るい気分」くらいのもの。次第にバブルの悪影響が目立つようになって行った。

金利が上がって住宅ローンが組みにくくなると共に地価上昇と連動した形で住宅価格も急激に値上がり。一般庶民には新築はおろか中古住宅さえ手が出ない高嶺の花状態で住宅難民が急増。「東京都内の土地や住宅は高すぎて一般庶民には手が出ない」、「これでは一生働いても家なんかは持てない」などの不満が渦巻いた。

急激なインフレで円の価値が下がり、食料品や生活必需品の価格が急騰。生活費や借地借家料などがうなぎ上りなのに給料や年金はそれに追いつかない。株や実物資産を持たない一般国民はバブルのおかげでかえって生活が苦しくなって行った。

反社組織による強引な地上げが日本各地で横行。地上げされた土地が次々に更地にされ、市街地の中に虫食いのように使われない空き地が増えて行った。土地に関わる犯罪事件も急増して社会に暗い影を落とした。

バブルを退治する「平成の鬼平」三重野日銀総裁登場

大儲けした人々がバブル景気に浮かれ、その熱気が最高潮に達すると同時にバブルのしわ寄せを被った国民の怨嗟の声が高まった頃合いを見計らって鳴り物入りで登場したのが三重野康日銀総裁。

澄田の後任として就任した三重野は、日銀の裏の業務まで知り尽くした日銀プロパー組。悪いバブルを退治する「平成の鬼平」としてマスコミに持ち上げられた三重野は澄田日銀の金融緩和政策を180度転換し、バブル潰しに大ナタを振るった。

三重野日銀は1990年、僅か5か月の間に2.5%から6.33%へと約4%もの利上げというこれまた前代未聞の急激な金融引き締めを断行。日銀と歩調を合わせる形で、1990年3月、大蔵省も「不動産融資総量規制」(大蔵省による行政指導)を発動、翌年には地価税を導入して一気にバブル景気を崩壊させた。

日銀「窓口指導」も一転して貸出抑制を各銀行に徹底させた事は言うまでもない。

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日銀によるバブル創出と破壊のカラクリは、2001年にベストセラーとなった「リチャード・A・ヴェルナー『円の支配者(Princes of the Yen)』」に詳述されている。日本銀行の本当の目的や「窓口指導」の実態、銀行貸し出しによる「信用創造」の仕組みなどについての説明も明快で非常に参考になる。古本であれば千円以下で購入できるので、一読をお勧めする。

ドキュメンタリー『円の支配者 - 誰が日本経済を崩壊させたのか』~リチャード・ヴェルナー著より~

金利引き上げに舵を切った日銀に対して好景気の腰折れを懸念した当時の橋本龍太郎蔵相は「公定歩合引き上げを白紙撤回させる」と息巻いたが、世論の応援を背にした強気の三重野総裁は「公定歩合の引き上げには地価を鎮静化させる意図もある」としてこれに応ぜず、「シナリオ通り」その後も利上げスピードを加速させていった。

ついにバブル崩壊

日銀が自作自演(マッチポンプ)したバブルの創出と破壊という「人為的大災害」によって株価と不動産価格は見る見るうちにに大暴落。各銀行の貸付金は回収不能となってあっという間に巨額の不良債権化。銀行の誘いに乗って大量の不動産を買い込んだ企業も不良物件を抱えて採算が急激に悪化。この不良債権が足かせになって日本経済はその後、長期の不況に見舞われる。

1990年1月の「バブル崩壊」で株価暴落が始まってから1年半もの間、日銀は6%の高金利を維持したまま何もせずに放置、景気後退が確実になったことを確認した後ようやく公定歩合を0.5%だけ引き下げた。

その後、6回に渡って小刻みに公定歩合を引き下げ、1993年2月にはバブル時代と同水準の2.5%まで低下した。しかし、バブルを招いた急激で大幅な利上げスピードに比べると、利下げの方は比較にならない程の深刻度の割には随分とゆったりとしたペースだった。

この間、株価と地価の大暴落による景気後退は加速度的に進行し、日銀のスローで後追い的な公定歩合引き下げは全くと言っていい程効果がなかった。

バブルを意図的に崩壊させた日銀は日本経済が深刻な不況に陥っているのをよそに、バブル再来防止を名目に1995年3月まで積極的な量的緩和を行わず、円の供給量を大幅に減らして流動性を低下させた。

その苦境に追い打ちをかけたのが1992年度末に導入された「BIS規制」。銀行の自己資本比率を8%以上とする「BIS規制」をクリアするため、元々自己資本比率が低かった各銀行が一斉に「貸し剥がし、貸し渋り」に走ったため多くの中小企業が倒産。日本経済に更なるダメージを与えた。

バブル崩壊初期の不良債権総額は約14兆円と公表されたが実態は50兆円規模、それが1990年代後半には100兆円にまで膨れ上がった。特に銀行は深刻で、バブル期に実施した融資の多くが地価下落のために回収不能に陥り、2002年には銀行全体で43兆円の不良債権を抱え込んだ。

政府は銀行の倒産を防ぎ、金融の安定化をはかるという名目で合計38兆円の公的資金を大手銀行に注入した。金融危機のこれ以上の悪化を防ぐという意味では一定の効果があったが、不良債権の処理自体は先送りされ根本的解決には程遠かった。

ノンバンクである住専へも公的資金注入が実施されて国民からの批判を浴びたが、それ以外の一般企業に対する公的資金注入は最後まで行われなかった。財テクに失敗し含み損を抱えた多くの企業が倒産。生き残った企業も巨額の不良債権処理に長期間苦しみ、日本経済の活力を奪ってその後の長期不況の原因となった。

バブル最盛期があまりにも華やかだったのと対照的にバブル崩壊後の日本経済は尾羽打ち枯らしたよう活力を失い、社会全体に暗く沈滞したムードが漂った。個人消費も激しく落ち込み、景気後退に拍車をかけた。

こうして「前川リポート」の目論見通り、1992年まで世界1位だった日本の国際競争力は1993年には3位に低下、1996年には17位と急激に落ち込み、2019年には30位以内さえキープできず、凋落の一途をたどった。

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バブル崩壊ショック・ドクトリンを利用した「日本的経営」攻撃キャンペーン

「バブル崩壊」を機にマスコミを総動員した大キャンペーンによる誘導もあって、日銀と米国の思惑通り日本社会に「戦時経済体制」や「日本型経営システム」はもう時代に合わないというムードが急激にに高まった。(実際には、「戦時経済体制」とバブルの崩壊とは何の関係もない。)

その後も日銀は「流動性の低下」による信用創造の収縮、「誤った」金融政策等を通じて意図的に不況を長引かせることで、最終目的である日本の経済構造を「平時経済」~アメリカ型の「新自由主義経済体制」へと改造する事に成功した。

リチャード・ヴェルナーへのインタビュー

そのためにバブルの崩壊という「ショック療法」によって人々が茫然自失し、これまでの日本型経済システムに対する自信を喪失させる必要があった。これはまさしくナオミ・クラインの言っている.「ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)」に他ならない。

バブル崩壊後の日本経済の惨状

バブル崩壊による大不況によって失われた国富は、株と不動産だけで何と1500兆円!

巨額の不良債権を抱えた日債銀や長銀、拓銀などの銀行や信用金庫、住専、証券会社や投機に手を出した企業などの経営破綻が相次いだ。四大証券会社の一角、山一証券の自主廃業は悲惨そのものだった。

その多くが当時「ハゲタカファンド」と呼ばれた投資グループや外資系投資会社などに二束三文で叩き売られて行った。

経営破綻した長銀(日本長期信用銀行)が米国の投資会社に僅か10億円で売却されたのは、その象徴的な出来事だった。大手15銀行には一時的に公的資金を投入したのに、長銀には公的資金を投入せずに売却を促した日本政府の方針も米国の意に沿ったものだった。

『バブルへGO!タイムマシンはドラム式』(2007) 予告編

主人公が、大蔵省の「不動産融資総量規制」発動を阻止するために2007年から1990年の日本にタイムトラベルするSF喜劇映画『バブルへGO!タイムマシンはドラム式』。

終盤で、バブル崩壊が大蔵省と米国の思惑通りだったことが描かれていて、なかなか興味深い映画だった。さすがに、本当の黒幕である日銀までは出て来なかったが。

現在も日銀は、売りたくても売れない米国債の大量購入、為替市場におけるドルの買い支え、ドル立ての対米投資政策、海外展開企業が米国で挙げた利益の現地再投資、米国製型落ち兵器の言い値爆買い、新NISA等によって米国の貿易赤字を補填し、日本の国富を米国に移転させ続けている。

米国にとっての日本は返済不要でいくらでも金を提供してくれる「黄金の卵を産むガチョウ」であり、無制限にお金を引き出せる便利な「ATM」。

狙い通り、まさしく米国の経済的植民地となってしまった日本。これが、バブル崩壊を引き起こした日銀の本当の狙いであり、日本国民がいつまで経っても豊かになれない大きな原因だ。

もし、人為的大災害「バブル崩壊」が無かったら

あんまりな状況なので、この辺で気分転換に『バブルへGO!』の真似をして少しSFっぽいことを書いてみよう。

バブルの創出と崩壊」という日銀による日本経済の破壊工作がなければ、その後の日本経済はどうなっていたかという簡単なシミュレーション。

当然、「失われた30年」などは影も形もなく、旺盛な消費活動と企業による活発な資本投資 輸出の拡大、研究費の増加による技術革新、(幻に終わった)団塊ジュニアの次の第三次ベビーブームによる「人口ボーナス」などによって、日本はその後も順調に経済発展を続けるだろう。        

勿論、米国の対日貿易赤字による日米経済摩擦は激しさを増し、日本も米国をなだめるためにかなりの譲歩は余儀なくされただろうが、それでもバブル崩壊のような壊滅的なハードランディングにはならず、交渉にそれなりの時間をかけたソフトランディングになったはず。

であれば、政府の適切な経済対策と石油ショックに見舞われた時のような国をあげての企業努力によってダメージを早期に回復することは十分可能。                     
その後の経済発展によってGDPでは米国をも抜き、アメリカにとって代わって「日本の時代」が訪れていた、かもしない。

勿論、上記のシナリオは日本が本当の独立国家であるという架空の前提に立った夢物語。現実には、属国の分際で宗主国の経済的覇権を脅し始めた日本を米国がそのまま放置するはずがない。

後述のように日本が米国の属国でいる限り、冷戦終結に伴って遅かれ早かれ経済的に叩き潰される運命だったことは確実だ。現実世界では、その具体化が「バブル崩壊」だった訳だが。

筆者はバブル崩壊は日銀が米国経済のために用意周到に仕組んだものだと考えているが、こうした考えは即座に「陰謀論」というレッテルを張られてしまうらしい。一般的には「犯意なき過ち」と言われるように、急激なバブル崩壊は日銀 (ブラス大蔵省) の金融・財政政策の誤り、つまり「うっかりミス」というのが通説だかからだ。

この件の真偽に関しては、「前川リポート」を出したのが当の日銀であった事は非常に重要。バブル形成と崩壊によって、日本経済の構造改革は「前川リポート」の計画通りに進展した訳だが、これは日本が進んで選んだ道なのだろうか?

逆に言えば、「バブル崩壊」というショック・ドクトリンがなければ「前川リポート」の計画実現は非常に困難であり、計画通りに進展したとはとても思えない。いくら日銀が「日米経済摩擦解消のためには、構造改革が必要だ!」と叫んだところで、日本経済が好調な状況では経営者には響かないし、説得力もないのだから。

また、本当に「うっかりミス」であるのなのら、「予期せぬ」バブル崩壊とそれに続く大不況に直面した日銀はすぐに過ちに気づいて緊急対策を講じ、日本経済の早期回復に全力で取り組んだはずだ。

しかし、そのような形跡はほとんどなく、むしろ今日に至るまで30年間以上も日本の経済不況を長引かせ、故意に回復を遅らせるようなことばかりやってきたと言わざるを得ない。バブル崩壊以降も日銀は「自分で自分の首を絞め続けた」のだ。

大不況でも不良債権買取を実施しなかった日銀の思惑

たとえば、日銀はその気になればいくらでも (ハイパーインフレにならない範囲で) 通貨を発行できるのだから、バブル崩壊後の平成大不況の原因になった巨額の不良債権も、日銀が当時の簿価ですべて買い取れば一気に解決できたはずなのだ。

これによって民間銀行のバランスシートは健全化するから、不良債権に足を引っ張られずに再び融資を拡大していくことが可能になる。

現在、日銀は従来であれば禁じ手であった巨額の日本国債の発行(発行元は財務省たが、発行事務や流通管理は日銀)と買い入れを平然と続けているのだから、これと同じ事をやればよかったのだ。

1990年代の早期に日銀が不良債権買取を実施していればその後に続く「失われた30年」は存在せず、バブル崩壊の痛手から立ち直った後は順調に回復して経済成長を続け、GDPで中国に抜かれることもなかっただろう。

最も効果的な不良債権処理方法を知りながら、そして、その能力がありながらわざとそれを行使せずに意図的に不況を長引かせたのは、上に書いたように日本の産業経済構造を米国が日本経済を思いのままにできる「新自由主義経済体制」へと改造する最終目的があったからだ。

日銀の不作為と妨害によって、1980年から1991年のバブル崩壊までの平均経済成長率名目:6.3%、実質:4.3%だったものが、バブル崩壊後から 2011年度までの「失われた20年」の平均経済成長率名目:-0.1%、実質:0.8%となり、日本はほぼ経済成長しない国になってしまった。

ただし、一度だけチャンスらしきものがあるにはあった。1992年8月、当時の宮沢首相は一時、不良債権処理への公的資金の活用を検討したのだ。

しかし、自身の出身官庁である大蔵省から思いとどまるように強く説得されて、結局公的資金投入は見送られてしまった。表向きはそうだが、断念した本当の理由は米国が首を縦に振らなかったためだろう。

仮にもし、国の予算による大規模な不良債権買取が実施されていたらどうなっていただろうか。

残念ながら日銀による買い取りほどの大きな効果は期待できないだろう。日銀の場合は「信用創造」によって「無」からお金と言う「有」を生み出すことができる。これによって出回るお金の全体量(マネーストック)が増えるので、大きな景気刺激効果が期待できる。
                                  これに対して税金による債権処理では「信用創造」ができないため、他に政府支出として使えるはずだった予算が銀行へと移動するだけ。全体としてはお金の量は増えないので、日銀買取ほどの経済効果は見込めない。
                                  とは言っても、全く効果がない訳ではない。公的資金投入によって銀行のバランスシートはきれいになるから民間銀行の融資マインドが改善され、貸し渋りや貸しはがしはなくなるだろう。また、ある程度の融資拡大による「信用創造」も期待できたはず。

つまり、日銀買い取りより効果は劣るものの、「民間不良債権政府買取政策」はやらないよりは、やったほうがずっとよかったのだ。

こうして不良債権問題を解決する唯一のチャンスを逃した結果、1990年代10年間の経済成長率は僅か1.2%にまで落ち込み、更に2000年代はマイナス成長にまで悪化、日本経済は「失われた30年」の泥沼に足を取られて一歩も前に進めなくなってしまった。

ソ連の崩壊は、ある意味取り返しがつかない程の日本への大災厄

過去の歴史を振り返ってみたとき、日本にとってソ連の崩壊はある意味、取り返しがつかない程の痛恨事だった。              

東西冷戦の間、敗戦後の焼け跡から立ち直り、資本主義陣営の優等生とし目覚ましい経済発展を遂げていた日本は、反共の防波堤であると同時に共産圏に対する西側の「ショーウィンドー」として、米国にとって大いに利用価値のある国だった。

また、当時は社会党が強かったため、へたに圧力をかけると保守政権が転覆してソ連寄りの社会主義政権が誕生する恐れもあったので、米国は日本の経済発展を内心苦々しく思いながらも大目に見ていた。

ソ連が急速に崩壊し始めたので(1989年11月ベルリンの壁崩壊)、全盛時代のソ連よりも遥かに大きな脅威となった日本経済に対して、米国は後顧の憂いなくに経済的鉄槌を下すことができるようになった。そして、最も効果的ににそれを実行したのが「米国の傀儡」日本銀行だったという訳だ。

日本銀行の改革が必要

勘違いしている国民が多いが、日本唯一の中央銀行である日本銀行は、米国のFRBと同じく国立銀行ではない。

日銀の資本金1億円のうち政府が55%を民間が45%を出資している半官、半民の企業。株式を証券取引所に上場しているので、その意味では株式会社とも言える。日銀は自らを「認可法人」と言っているが。

バブル崩壊後の長期デフレによって経済成長がほとんどストップしてしまった日本の惨状を横目で見ながら、わざと何もしなかった日銀は本当に許しがたい存在である。

しかし、だからと言って30年間に渡る日本経済長期停滞の責任を日銀に負わせることはできない。なぜなら、現行の「日銀法」で日銀に課された使命は「物価の安定」と「金融システムの安定」の二つだけだからだ。

日銀を日本国民のための中央銀行に改造するためには、日銀法を改正して上記2項の他にもうひとつ「経済成長目標の達成」を加える必要がある。同時に1997年の日銀法改正で格段に強まった日銀の独立性を弱める法改正も行必要だろう。

その上で、ハイパーインフレに陥らない範囲での経済成長率目標を政府が毎年定めて、その目標達成を日銀に義務付けるのだ。達成できなければ即刻日銀幹部を更迭するくらいのペナルティも必要。

こうなれば日銀総裁も「円の帝王」として傲慢にふんぞり返っていることはできなくなり、目の色を変えて成長目標達成に尽力するはずだ。

もっとも、その前に無能と不正、腐敗の極みである上に、米国や身内の縁故企業、大企業・財界、富裕層、高級官僚など所謂「上級国民」のための政治しかやらない自公政権に一刻も早くお引き取り願う必要があるが。

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