「自分という楽器をリペアする」──「響き」を取り戻した3日間の対話
「どうせまた、泣いてしまうんだろうな」
そう思っていた。
申し込む瞬間から、少し足が重かった。
3日間のプログラムのテーマは「響き」。
それを知って申し込んだわけではない。
けれど、今の自分にとって、もう一度「響く」という感覚を取り戻すことは、かなり大切なことになっていた。
だから、行くことにした。
結果として、最初の2日間は、本当に苦しかった。
そして3日目の午前中、ようやく少しずつ何かが戻ってきた。
最後にたどり着いたのは、「響きあうって、なんだったっけ?」
という問いに対する、「あ、これ、いつもやっていたことだった」
という、あまりにもシンプルな答えだった。
多くのものを得た3日間だったが、
この感覚については新しい何かを身につけたわけではなかった。
むしろ、少し遠くなっていた「自分の本来の音」を取り戻したような3日間だった。
■「正しく伝えたい」と思っていた
最近、自分が人に何かを伝えるとき、
「正しく伝えたい」という気持ちよりも、
「分かち合いたい」
「響かせ合いたい」
という気持ちの方が強いことに気づいた。
「伝えたい」は、その前提にすぎなかったのだと思う。
自分が持っているものを相手に正確に届ける。
それだけではない。
相手から何かを受け取る。
受け取ったものが自分の中で響く。
自分の中で変わったものを、また相手に返す。
その循環の中で、お互いの中にまだ見えていなかった可能性が立ち上がってくる。
そんな「共鳴」の方が、自分が本当にやりたいことに近い。
だから最近は、「受け取る」から始めてもいい。
むしろ、その方が自然なのではないかと思うようになった。
■人は、自分一人では自分の可能性を感じ取れない
自分の中にある可能性なのに、自分一人では、それが可能性だと気づけないことがある。
誰かの言葉を受け取ったとき。
誰かの存在に触れたとき。
誰かの挑戦を見たとき。
「それ、あなたのことじゃない?」と投げかけてもらったとき。
突然、「あ。これ、自分の中にもあったんだ」
と感じることがある。
そして逆もある。
自分が誰かに投げかけた言葉によって、その人自身もまだ感じ取れていなかった可能性が響き始める。
だから、人と人との対話は、単なる情報交換ではない。
可能性を響かせ合う行為なのだと思う。
■「3つの対話」は、「3つの共鳴」である
以前のNoteでも記事にしたように、私は、
自分との対話=リフレクション
人・組織との対話=ダイアローグ
社会との対話=イノベーション
という「3つの対話」の重要性を考察してきた。
今回の3日間を経て、今はこれをもう一段深く、
「3つの共鳴」
として捉えられる気がしている。
自分との共鳴。
人・組織との共鳴。
そして、世界との共鳴。
自分の中で、右手と左手が響き合う。
人と人が響き合う。
組織と人が響き合う。
そして、自分と世界が互いに働きかけ、返ってきたものを受け取りながら、また働きかける。
その循環の中から、新しいものが生まれてくる。
今回の3日間で起きたことは、コーチングの場だけに閉じた話ではなかった。
これまで自分が考えてきた「対話」「イノベーション」「希望」といったテーマまで、別の角度からつながり始めたのだ。
■片手では、音は鳴らせない
私がよく使っている「右手と左手」というメタファーが、ここでかなり大きな意味を持つような気がしている。
右手は、世界に働きかける手。
創造を担い、構想を実現する重要な力が宿っている。
左手は、世界から受け取る手。
創発を担い、構想をイメージし、楽しみを見出す力が宿っている。
右手だけが強くなると、
「どう変えるか」
「何をするか」
「どう解決するか」
に偏っていく。
左手だけが強くなると、
「どう感じたか」
「何を受け取ったか」
「次はあれをやってみよう」
に留まり、世界に返していくことが難しくなる。
だから、片手では、音は鳴らせない。
両手が一緒に動いて、初めて音が生まれる。
そして、人と人との関係でも同じだと思う。
ハイタッチだって、片方だけでは成立しない。
自分が差し出し、相手も差し出す。
自分が受け取り、相手も受け取る。
その双方向性の中で、初めて「共に響く」ことができる。
■「共に響く」と、通信できるものが増えていく
共鳴について考えていると、通信の比喩も浮かんでくる。
共に響いている状態では、単純に通信速度が上がるだけではない。
通信できる情報の帯域そのものが広がる。
言葉やデータだけではない。
感情。
価値観。
直感。
違和感。
まだ言葉になっていないアイデア。
「なんか、こっちが面白そう」という感覚。
そうした「コンテンツ以外のもの」まで、扱えるようになる。
さらに、信頼が積み重なると、関係性の中に文脈が保存されていく。
「さっきのあれだよね」
それだけで、膨大な背景を共有できる。
信頼というメモリやハードディスクが、どんどん大きくなっていく。
だから、共鳴とは、通信速度を上げることではなく、通信可能なものを増やすことなのかもしれない。
■イノベーションにおける探索とは、「響く場所」を探すこと
この考え方をイノベーションに持ち込むと、探索の意味も変わってくる。
探索というと、まだ存在しない「何か」を探すイメージがある。
でも、
探索とは、構造の中から「響く場所」を探す行為なのではないか。
と思うようになった。
顧客のまだ言葉になっていない違和感。
技術者の「なんか面白い」。
社員の「本当はやってみたい」。
社会の「このままでは嫌だ」。
異なる業界の間にある、なぜか似ている構造。
そこを小さく叩いてみる。
何が返ってくるかを聴く。
また叩く。
また受け取る。
そうして、共鳴が大きくなっていく。
イノベーションとは、アイデアを頭の中からひねり出すことではなく、構造の中にある、まだ発見されていない共鳴点を見つけ、その共鳴を育てていくことなのかもしれない。
■ところが、最近「響き」が少し遠くなっていた
そんなことを考えていた一方で、最近、自分がインスピレーションを受け取る機会が少し減っているように感じていた。
論理的に考えることはできる。
過去の経験を組み合わせて、言葉を紡ぐこともできる。
けれど、自分にとって大切なのは、それだけではない。
突然、「あ、これだ」と感じる瞬間。
鳥肌が立つ。
身体が反応する。
言葉が降りてくる。
そして、その言葉を、自分の言葉とプレゼンスを使って場に送り出す。
そういう瞬間がある。
その感覚が、少し遠くなっていた。
だから、この夏休みに3日間のプログラムを受講することにした。
かつてこの「鳥肌」の感度がグンと高まったCTIというコーチングスクールのプログラム。
これまで2回受講して、2回とも自分自身が涙を流して泣いたり、心の底から笑ったり、人間的な濃密な時間を過ごした場の、次のステップだった。
コーチングの技術を増やしたかった、というのももちろんある。
でも、それ以上に求めていたものがあった。
人間的な場に浸ること。自分自身について、本質的な振り返りをして、もう一度そこから再出発すること。
そして、人の存在そのものや、人の営みを、もう一度信頼し直すこと。
その結果として、「響き」を取り戻すこと。
■自分という楽器を、リペアに出す
今回の3日間を振り返っていて、一番しっくりくる比喩は「楽器のリペア」だと思う。
ギターをリペアに出すとき、
「もっと上手く弾けるようにしてください」
とは言わない。
ネックの角度を調整する。
弦高を調整する。
フレットを整える。
金属パーツを交換する。
電気系統の部品を交換する。
必要なら、いろいろなところを調整する。
それによって、楽器が本来持っている音を出せる状態に戻していく。
今回の自分に必要だったのも、それに近かった。
新しい技術を身につけること以上に、
自分という楽器を、もう一度ちゃんと鳴る状態に戻すこと。
人間的な場に浸る。
揺さぶられる。
自分自身を振り返る。
人の存在を信頼し直す。
そうすることで、少しずつ自分の「響き」を取り戻していった。
■なぜ、最初の2日間はあんなに苦しかったのか
今振り返ると、苦しんだ理由もかなり見えてきた。
最近、仕事の中で、論理と作法だけでジャッジされるような場に身を置き、私にとっては「空虚な空中戦」のように感じられる会議を、経験した。
それ自体も苦しかった。
でも、もっと深いところにあったのは、自分自身の矛盾だった。
私は、
「人の存在そのものや、人の想いが、そこに生まれただけで祝福され、もっと大切に扱われる体験が溢れる社会をつくりたい。」
ということを、自分の人生の目的、大切にしたいこと、ありたい姿として掲げている。
なのに、自分自身がそう扱われない時間を、現在進行形でたくさん過ごしている。
さらに、自分自身にも「人の存在よりも、課題解決に意識が向いてしまうというクセがある。そのことにも、向き合わざるを得なかった。
すると、
「人の存在を大切にしたい」
↓
「でも、自分自身がそう扱われていない」
↓
「しかも、自分自身も人を課題として見てしまう」
↓
「お前、全然できてないじゃん」
という負のスパイラルに入り込んでしまった。
初日、この状態でコーチングのデモンストレーションのクライアント役を引き受けてしまったものだから、20名以上が見守る中で、私は涙を流しながら、ほとんど言葉を発することができない状態になってしまった。
抜け出すのが、本当に大変だった。
■「響きを取り戻す」という課題すら、課題解決していた
さらに厄介だったのは、「響きを取り戻したい」と思った瞬間に、
「響きを取り戻す」という課題を解決しようとしていたことだ。
二日目もこれに苦しんだ。
もっと人間的にならなきゃ。
もっと自分を開かなきゃ。
もっとプレゼンスを高めなきゃ。
もっと響ける器にならなきゃ。
そうやって「響き」を取り戻そうとすること自体が、また右手の課題解決モードになっていた。
だから、ずっと迷子だった。
「ひびきって、なんだったっけ?」
それすら分からなくなっていた。
2日目が終わる頃には、もはや完全に自信を失ってしまっていた。
■「問題を抱えた人」ではなく、「ありたい姿を持つ人」
そんな中で、今回あらためて気づいたことがある。
目の前の人を、
「問題を抱えた人」
として扱っているときは、響かない。
現状を点検する。
課題を特定する。
原因を分析する。
解決策を考える。
もちろん、それは必要なこともある。
でも、そのモードに入りすぎると、目の前の人が「問題を解決される対象」になってしまう。
一方で、
「どうしたら、もっと楽しくやれるんだろう?」
「この人が本当に求めている状態って、どんな状態なんだろう?」
「この人のありたい姿って、どんなものなんだろう?」
と考え始める。
すると、相手の中にある可能性を見るようになる。
自分もまた、「何とかしてあげなければ」という立場から少し降りる。
そして、お互いが「ありたい姿」に意識を向けた瞬間、
「そうそう、それ!」
が起きる。
その瞬間、響く。
3日目の午後のセッションで、ようやくこのモードを取り戻すことができた。
■「鳥肌」は、共鳴のセンサーだった
インスピレーションが降りてきたとき、鳥肌が立つことでそれに気付くことがある。
論理的に考えて紡いだ言葉とは、少し違う。
身体が先に、「これだ」と教えてくれる。
そして、そのときは、涙が出そうになっても、話し続けることができる。
今回、そこにも大きな違いがあることに気づいた。
自分自身に矢印が向きまくっている状態で涙が出始めると、ほとんど声が出なくなる。
「自分はどうなんだろう」
「ちゃんとできているだろうか」
「こんな自分でいいのだろうか」
そんなふうに自分を見続けていると、感情が自分の中をぐるぐる回り始める。
一方で、響いているときも、涙が出そうになることはたくさんある。
でも、そのときは言葉にして話し続けられる。
違いは、涙の量ではない。
矢印の向きなのだと思う。
内側に向きすぎていると、感情が自分の中で循環する。
外側に向かっているときは、感情が自分を通って、言葉やプレゼンスとなって場に流れていく。
だから、
泣かなくなったから響いているのではない。
むしろ、
泣きながらでも、世界との接続を切らずにいられる。
それが、自分にとってのプレゼンスなのかもしれない。
■技術を超えた「技術」
Co-Activeコーチングやリーダーシップワークショップを通じて、もちろんたくさんの技術を学んできた。
でも、今回あらためて感じたのは、技術のさらに奥にあるものだ。
目の前の人を「直す」のではなく、
「この人の中には、まだ自分にも見えていない可能性がある」と信じる。
自分自身についても、
「今の自分の中にも、まだ感じ取れていないものがある」と信じる。
そして、
「この人は本当はどうありたいんだろう?」
「自分は本当はどうありたいんだろう?」
「この場は、何を求めているんだろう?」
と、少し無責任なくらいに可能性の方を向いてみる。
すると、何かが響く。
「そうそう、それ!」
その瞬間を、身体が教えてくれる。
そして、その響きを信頼して、右手で場に返す。
これは、コーチングの質問技法よりも、もっと根っこのところにある。
私にとっては、「技術を超えた技術」と呼びたくなるものだ。
■そして3日目、「あ、いつもやっていたことだった」
3日目の午前中。
ようやく、何かがほどけた。
そこで出てきたのが、
「響きあうって、なんだったっけ?」という問い。
そして、その答えは、
「あ、いつもやっていたことだった」だった。
新しい方法ではなかった。
特別な技術でもなかった。
自分がこれまで、何度も人と出会い、場をつくり、問いを投げ、何かを受け取り、鳥肌を立てながら言葉を返してきた、その営みそのものだった。
ただ、少し調子が狂っていた。
だから、リペアに出した。
■「響き」は、取り戻すものではなく、鳴る状態をつくるもの
今回の経験から、少しだけ「響き」の意味が変わった。
響きは、自分から起こすものではない。
誰かを響かせるものでもない。
自分と誰かの間に起こるもの。
そして、それが起こるためには、
自分自身が受け取れる状態であること。
相手も受け取れる状態であること。
お互いが「ありたい姿」に意識を向けられること。
そして、信頼があること。
そのとき、
自分の中にはなかったと思っていた可能性が、相手との間から現れてくる。
だから、人は一人では自分の可能性を全部感じ取れない。
誰かに響かせてもらわないと感じ取れない可能性が、お互いにある。
■おわりに──「共に響く」ために
「正しく伝える」ことは、もちろんこれからも大切にしたい。
でも、それを目的にはしたくない。
その先にある、
分かち合うこと。
響かせ合うこと。
そして、共に響くこと。
そこを、これからも大切にしていきたい。
自分との共鳴。
人との共鳴。
組織との共鳴。
そして、世界との共鳴。
イノベーションにおける探索も、もしかすると、
「構造の中から、響く場所を探すこと」
なのだと思う。
そして、自分自身を「響きやすい器」にしておくことも、同じくらい大切なのだろう。
右手で世界に働きかける。
左手で世界から受け取る。
その両方を使う。
片手では、音は鳴らせない。
そして、人と人との間でも同じ。
ハイタッチのように、互いに差し出す。
互いに受け取る。
その瞬間、一人では出せなかった音が鳴り始める。
今回の3日間で、まずリペアしたかったのは、他人との関係ではなく、自分という楽器そのものだった。
だからこれからは、自分自身の存在も、もう少し大切に扱っていきたい。
人の存在を大切にする社会をつくりたいなら、まず自分自身の存在も、その社会の一人として大切に扱う。
そうして調律された自分で、
自分自身と、人と、組織と、世界と、共に響いていく。
その音が誰かに響き、
誰かの音が自分に響き、
その間に、まだ誰も聴いたことのない音楽が生まれる。
そんなふうに、これからも共に響いていきたい。
最後になりましたが、素敵な3日間を共に過ごして頂いた皆様に、最大級の感謝と祝福を。
最後までお読み頂きありがとうございました☆
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