見出し画像

「人はなぜ昇進すると無能化するのか?」ピーターの法則を超越するための実践思想とトップの役割――限界説から自由でいるための組織デザイン

はじめに――自由とは、影響を引き受けることである

「自由」とは、何者にも影響されないことではない。むしろそれは、現実に存在するさまざまな影響――制度、慣行、文化、歴史、権力関係――を無視することなく引き受けたうえで、そこから新たな選択肢を生成し、新たな影響を世界に生み出していくことではないだろうか。

この意味での自由は、楽観でも反抗でもない。「どうせ変わらない」「仕方がない」と現実に従属する態度とも、「こんな構造は間違っている」と現実を否認する態度とも異なる。それは、現実の制約を直視しつつ、なお別の現実が生成されうる余地を信じ、行為として引き受ける姿勢である。

本稿で扱う「ピーターの法則」は、組織論において、まさにこの自由をめぐる問いを鋭く突きつけてくる。ピーターの法則――「人は無能になる階層まで昇進する」という有名な命題――は、多くの組織で半ば常識のように語られてきた。説明としては分かりやすく、経験的にも「確かにそう見える」場面は多い。しかし同時に、この法則はしばしば、組織の限界を自然法則のように扱い、思考と実践を停止させる言説として機能してきたようにも思われる。

本稿の目的は、ピーターの法則を否定することではない。また、安易な解決策を提示することでもない。むしろ、ピーターの法則がなぜ、どのような構造のもとで起動するのかを問い直し、そのうえで、それが起動しない組織をいかに実践的につくりうるのかを探ることにある。

そのための理論的な手がかりとして、本稿ではロイ・バスカーの批判的実在論を援用する。もっと正確に言えば、批判的実在論を「使う」というよりも、批判的実在論的な態度で組織と関わることを試みたい。理論を引用すること自体ではなく、理論が要請する実践の姿勢こそが、本稿の関心である。


第1章 ピーターの法則は何を説明し、何を隠してきたのか

ピーターの法則が広く受け入れられてきた理由の一つは、それが「分かりやすい説明」だからだろう。優秀なプレーヤーが必ずしも優秀なマネージャーになるわけではない。昇進によって役割が変わり、求められる能力が変化する以上、どこかでミスマッチが生じる。こうした説明は直感的であり、多くの経験と整合的でもある。

しかし、ここで一つの疑問が生じる。もしそれが本当に「個人の能力や適性」の問題であるならば、なぜ同じような現象が、同じ組織の中で、繰り返し、しかも集団的に観測されるのだろうか。なぜ「たまたま向いていなかった人」が続出するのか。

ピーターの法則が語られるとき、多くの場合、その焦点は個人に向けられる。「あの人はプレーヤーとしては優秀だったが、マネジメントには向いていなかった」「名プレーヤー、名マネージャーにあらず」こうした言説は、状況を説明したようでいて、実は説明責任を個人に押し戻している。

その結果、組織の側は問われない。昇進の設計、支援の有無、フォロワーシップの文化、失敗の許容度、時間の与え方――そうした要素は不可視化され、「仕方のないこと」として温存される。ピーターの法則は、説明であると同時に、構造を守る装置としても機能してきたのではないだろうか。

ここで問題なのは、ピーターの法則が誤っているかどうかではない。問題なのは、それがどの視座から語られているかである。


第2章 個人帰責という語りが、無能化を生成する

ピーターの法則が組織内で起動する典型的な場面には、ある共通点がある。それは、昇進したリーダーが「お手並み拝見」の状態に置かれることである。

支援は過剰介入とみなされ、助言は越権と受け取られ、失敗は個人の資質として記録される。フォロワーは観察者になり、組織は評論家で満たされていく。このとき、リーダーが孤立するのは必然であり、その孤立の中で能力を発揮できなくなることも、また必然である。

重要なのは、ここで起きているのは「無能の露呈」ではなく、無能化のプロセスだという点である。能力が発揮されないのは、その人が無能だからではない。能力を発揮できない関係性と構造の中に置かれているからである。

それにもかかわらず、結果だけを見て個人に帰責する語りが支配的になると、組織は自らの構造を疑う機会を失う。ピーターの法則は、こうして自己成就的に再生産されていく。

つまりピーターの法則とは、能力の限界を示す法則ではなく、支援なき昇進という構造が生み出す帰結の名前なのではないだろうか。


第3章 バスカーの批判的実在論から見たピーターの法則

この様なものの見方に「待った」をかける哲学がある。
ロイ・バスカーの批判的実在論は、現実を三つの層で捉える。すなわち、私たちが観測する「経験的レベル」、出来事が生起する「現実的レベル」、そしてそれらを生み出す「実在的レベル(生成メカニズム)」である。

ピーターの法則は、経験的レベルでは確かに「観測される現象」である。しかし、それを説明するためには、実在的レベル――すなわち、どのような組織構造や文化、制度が、その現象を生成しているのか――に目を向ける必要がある。

例えば、ある組織で「無能化」が起きているとき、その背景には、「言ったもの負け」という経験を反復的に生み出す減点方式の評価制度や、常に他者との比較によって意味づけられる競争構造といった、目に見えない生成メカニズムが実在していることが多い。

こうした構造は、個々人の能力とは独立して、行為の選択肢そのものを狭めていく。

批判的実在論の立場に立てば、人は構造の前で無力な存在であると同時に、その構造を再生産し、変容させうる主体でもある。重要なのは、「構造か、個人か」という二項対立ではなく、構造に規定されつつ、構造に介入する実践である。

ピーターの法則を「個人の物語」として読むか、「構造の兆候」として読むかによって、組織の次の一手は決定的に変わる。


第4章 〈個〉から〈場〉へ――ピーターの法則を移送すると何が見えてくるのか

ピーターの法則は、「個」に当てはめた瞬間、限界説として機能する。「この人はここまでだった」という評価が下され、それ以上の可能性は想定されなくなる。

しかし、同じ法則を「場」に当てはめたとき、見えてくる景色は大きく変わる。問題は人ではなく、無能化を生成する条件であり、その条件をどう設計し直すかという問いへと転換される。

ピーターの法則を超えるとは、人を教育することでも、評価制度を少し調整することでもない。それは、無能化を生み出す生成メカニズムに対して、別の生成ルートを編み直すことである。

具体的には、以下のような問いが重要になる。

  • 昇進とは、権限の移譲なのか、それとも責任と支援の再設計なのか

  • フォロワーシップは「役割外」の行為として抑圧されていないか

  • 失敗が、学習ではなく烙印として機能していないか

  • 人が育つための「時間差」は、組織設計の中に組み込まれているか

これらは制度の問題であると同時に、文化と実践の問題でもある。ピーターの法則を消すことはできないかもしれない。しかし、それに栄養を与えている構造を変えることはできる。

ピーターの法則が起動するかどうかは、誰が昇進するかではなく、昇進という出来事を、組織がどう引き受けるかにかかっている。


第5章 トップの役割とは「時間を扱うこと」である

ここで、トップ――とりわけ社長という役割について触れておきたい。トップの役割は、意思決定を下すことや、正しい戦略を描くことだけではない。それは、組織における時間の使い方をデザインすることでもある。

誰に、どの順番で、どのような経験を与えるのか。失敗を早く起こすのか、あえて時間をかけるのか。学習のための猶予をどこに設け、どこで締め切るのか。

ファシリテーターが場の時間を設計するように、トップは組織全体の時間構造を設計する。その時間の中で、人は経験し、意味づけし、変化していく。

ピーターの法則が起動しない組織とは、能力の高い人が集まった組織ではない。経験が意味を持つように、時間が設計された組織である。

その意味でトップとは、未来を正確に予測できる人ではない。経験が経験として機能するよう、時間の流れに責任を引き受ける人である。


おわりに――限界説を引き受け、超えていく

ここで、私自身の実体験についても触れておきたい。

私は現在、大企業において中間管理職を担う一方で、複業としてコンサルタントやファシリテーターとして、さまざまな企業や組織の支援に関わっている。その両方の立場を同時進行する中で、繰り返し直面してきたのが「マネジメント層の孤軍奮闘」という現実である。

ミドルレイヤーからトッププレイヤーに至るまで、多くの人が弱みを見せることを避け、支援を受けるどころか、重圧だけを一方的に引き受け続けている。そこでは確かに、ピーターの法則が機能しているように見える。昇進した途端に苦しみ始め、力を発揮できなくなっていく人たちの姿は、枚挙にいとまがない。

しかし同時に、私は別の経験もしてきた。孤軍奮闘を前提としない「場」を、意図的に開いたとき、人は驚くほど異なるふるまいを見せる。弱さが共有され、試行錯誤が許され、支援が自然に往復する場において、いわゆる「無能化」は起こらない。少なくとも、それが固定化されることはない。

この経験から、私は確信するようになった。ピーターの法則は、人の限界を示す法則ではない。それは、特定の構造と文化のもとで起動する現象にすぎない。そしてその構造は、意図と実践によって、別のものへと編み替えることができる。

ピーターの法則を超えるとは、個々人により高い能力や覚悟を求めることではない。限界説を語り続けてきた組織のあり方そのものを引き受け、なお別の現実が生成されうることを、場と時間の設計によって示し続けることである。

自由とは、制約の外に出ることではない。制約の中で、新たな選択肢を生み出し続けることである。その自由を、個人の資質ではなく、組織構造として持続可能なものにすること。それこそが、いま求められているトップの役割であり、実践思想の核心なのだと、私は自らの経験を通して感じている。


最後までお読み頂きありがとうございました☆

◆◆YouTubeでも情報発信をしております。
是非御覧ください!!

いいなと思ったら応援しよう!