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信仰の自由の果てに


 義母の告別式が終わりました。
 親族の高齢化かつ、すでに鬼籍に入っている方がほとんどという状況での、身内だけの家族葬。
 義母から見た2人の実子(次男である夫と長女の義姉)、次男の嫁の私、義母の孫であるうちの息子、夫たちの従兄が1人のみの、こぢんまりとした式。孫その2であるうちの娘は、落とせない後期試験に被ってしまったので、欠席です。

カトリックの家庭

 3年前に亡くなった義父は、カトリック信者でした。京都大学工学部を出た後、神父になるために上智大学に入り直してイタリアのローマに留学。非常に熱心な信者でした。
 そういえば当時のローマ教皇崩御のタイミングでバチカンにいて、コンクラーベ(新教皇選定)の興奮高まる空気を目の当たりにしたそうです。

 そんな義父の意向を尊重して、義実家では食事の前にはカトリックのお祈りを捧げる習慣がありましたし、私たちの結婚式は義父の友人の神父様によるカトリックの式でした。もちろん信仰を持たず洗礼を受けていなかった夫と私は、カトリックで式をしてもらうために1ヶ月ほど神父様の所属されていた教会に毎晩通い、カトリックについて学ばなければなりませんでした。
 義父の兄弟やそのご家族は皆、カトリックの洗礼を受けていたので、義父側の親戚の告別式はすべて教会で行われていましたし、式はミサでした。
 義父の生前は、それで何の問題もなかったのです。

家の宗教に合わせる人々

 義母は、特に信仰を持っていませんでした。義父とともに日曜に教会に行くこともなく、カトリックの洗礼も受けていません。
 義父個人の信仰はあれど、仏教でよくある、"寺院の檀家や門徒になり法事だけ弔辞だけお願いできる"ような、『家』として形だけの宗教はありませんでした。亡くなった瞬間に天に召されるというカトリックには、あの世に行くまでの定期的な法事がなかったことも、理由の一つかもしれません。

 私の実家は浄土真宗です。お西さんと言われる、西本願寺派です。
 しかし、熱心な檀家というわけではなく、弔事法事にのみ、属するお寺にお願いするという程度です。
 もし実家の身内になにかあれば、流れ作業のように当然のこととして、檀家として登録している寺に頼むことでしょう。こんな家庭は、日本には結構多いと思います。

 万が一の時に、宗教にこだわりのない義母をどの宗教で送るかは、かねてより私の懸念事項でした。
 もし、義父が存命なら。
 義父のツテで、カトリックの洗礼を死後でも受けられたのかもしれませんし、教会でカトリックによって行えたのかもしれません。
 義両親共に元気な頃、その手の質問を投げかけた時の回答は、さも当たり前のように2人ともカトリックでと答えていました。

 …んなわけないだろう。

 とは、さすがに嫁の私は空気を読み、言いませんでした。どちらが先になくなったら、なんて縁起の悪い話まではできません。
 そして、実子たちはこの手の話題に触れたくなさそうでした。義両親が当然と思ってることを、当時敢えて否定しなくてもいいだろう、というスタンスでした。まぁ、思い込みを解消すべく、説明や説得が面倒だったのでしょう。
 そして、話題に触れずにここまで来て、想定していた中での最も決め事の多い状況になりました。

 義父は3年前に、義母より先に昇天してしまいました。残ったのは、洗礼を受けず、教会にはいかず、カトリックの信仰を持っていない、認知症になり判断能力を失った義母です。
 当然ですが、義母の葬儀となってからカトリック教会が受け入れてくれるわけなどなく、義父という繋がりも無くなった今、義母の告別をどうするかという現実問題が起こったのは自然なことでした。

 では、義母の生家ではどうだったのか。
 下記にも書きましたが、海を渡る距離もあり、訪問の頻度は低く、墓参りに連れて行かれた当時は子供だった夫と義姉の朧げな記憶では、墓前にお坊さんに来てもらうわけではなく、自分たちが山奥のポツンとした墓の前でただ手を合わせた記憶しかないそう。
 つまり、義母の実家の信仰は、仏教ではあったけれど、宗派は不明。お寺も不明。



葬儀社に紹介をお願い

 最近は、家族が思い出話をするだけの、お別れ会形式の告別式もあります。また別に、葬儀社が各宗教・各宗派を紹介することもできるそうです。
 ですが、そこで夫と義姉が選んだのは、日蓮宗でした。

 もともと、カトリックになる前、3世代前までは義両親の本家は日蓮宗だったようです。
 いずれ私が書くつもりでいる、少し不思議で少し鳥肌がたった話があるのですが、義父のご両親がどこに埋葬されているかを調べた時にたどり着いたのが、静岡の日蓮宗のお寺の、それも境内の中にあるお墓でした。
 そして、義両親は生前に『お墓が必要だ』とやたらと主張が激しい時期がありました。放っておくと、我々が通いにくいだろう山の奥の墓地とかになりそうな勢いでしたが、もしそんな場所に墓を建てられたら、後々困るのは子孫たち。つまりうちの子たちです。
 それならば、将来にわたって通いやすいところに買いますと、私たち夫婦が探して建てた墓も、偶然にも京都の日蓮宗の寺がもつ土地に造られた、宗教を問わない墓地でした。
 我が家の墓を建立→義父実家の墓参りで日蓮宗と判明、の順序ですが、不思議な因縁を感じました。

 オマケとして、私が子供の頃に通っていた日曜学校も、私の地元の日蓮宗のお寺でした。
 1時間ほど正座してお経を読んでから、本堂の掃除をすると、その後はお菓子をもらい、地域の中高生が遊んでくれるというもの。私の実家は浄土真宗西本願寺派ですが、そんなことはどうでもよく、同じ町内の子供は基本的にみんな日曜の朝はそこに通っていて、普段のご近所遊びの延長という感じでした。親は月謝を払っていたりしたのかな?。

 ここで縁だなんだというつもりは無いですが、夫と義姉によって日蓮宗が選ばれたことにまったく抵抗感がありませんでした。
 数十年ぶりに法華経をきいて、おおっ、と思ったくらいです。



信仰の自由の果てに

 日本は、信仰の自由が許された国です。各々が信じたい救いを信じることができます。
 そして、信仰に寛容な国です。仏教徒の家であっても、初詣に神社に行くし、バレンタインにチョコを送りあうし、夏祭りもやるし、最近は盛んになってるハロウィンの仮装もするし、クリスマスも祝います。
 この程よいユルユルした感性のおかげで、宗教に関する闘争は近代はほとんどありません。

 ただ、実際に信仰を持たなかった義母を送る時、お坊さんに来てもらってお経を唱えていただくという、『型』があって良かったと、心から思いました。義父の時は、神父様によるミサがあり、聖書の一説を読み、讃美歌がありました。
 このような『型』が無かったならば、ダラダラと思い出話を続けるだけの告別式になっていたかもしれません。それもまた話題尽きないご家庭ならば良いのかもしれませんが、我が家にとっては永遠の別れという場に、相応しくない間延びした式になっていただろう気がします。

 信仰の自由は尊ばれる権利です。
 信仰を持たないのも許された自由です。
 でも、なんにもないと、残された側は戸惑いますし困るのです。

 私はいま、特に信仰がありません。
 夫もありません。
 子供達も持っていません。
 うん、誰が送る側になっても困る可能性が高いです。

 この後、49日の法要や納骨で、葬儀と同じく日蓮宗に頼むのか、お寺さんの紹介を依頼するのか、墓地を所有しているお寺に頼むのかはまだ未定です。日蓮宗を信仰するとも、信者?門徒?檀家?、宗派によって呼び方は違いますが、それになるとは決めていません。
 ただ『型』は、たくさんやらねばならないことがある残された側にとっては、新たな決め事という手間をかけずに済むのだけは、確かです。

 自由には責任が伴うのです。
 今更ながら、当たり前のことです。

 とりあえず決めておくことができる事柄は決めておいて、なるべく送ってくれる家族の手間は減らしておこうと、私が葬儀をやってほしい場所だけは伝えておきました。
 でも、もっともっと整理して、死後に捜索してもらわなくても良いようにエンディグノートは早めに作って。できれば、数年に一度は内容の見直しをしておくのが、もっともスムーズかなと2026年の課題の一つをみつけてしまいました。

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