文字を持たなかった昭和 終末期48 3月24日① 斎場へ
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。3月23日の、明け方にはまだだいぶ間がある時間帯に訃報を受けたミヨ子さんのわたしとツレは、空路鹿児島向かった(「3月23日 真夜中の電話」に直接続ける)。
到着は夜、その日は鹿児島市内のホテルに一泊した。前の晩ろくに寝ていなかったので、ちゃんと休んでおきたかったのだ。
翌3月24日の朝、斎場へ向かう。ミヨ子さんは、最晩年の10年ほどを同居した長男のカズアキさん(兄)宅からほど近い、できて10年くらいのきれいな斎場で待っていた。
霊安室に入る。ご遺体が痛まないよう機械から冷風を絶えず送り込む管が繋がれた棺にミヨ子さんは眠っていた。棺のガラス窓からそろそろと覗き込んだ第一印象は――
「ああ、ここにお母さんはいない」
だった。
きれいに死化粧を施され安らかに眠っているように見えるこの姿は、いわば脱け殻だ。頬骨や鼻骨が尖っているのは、体を削りながら点滴だけで2カ月近くも耐えた結果だ。
ただ、着せてもらっている服は、本人が好きな色味である紫色が入ったブラウスとそれに合わせたピンク系のベストだった。同居していたお嫁さん(義姉)が選んでくれたのだ。ありがたい。
やがて祭壇の設えが整った。前項でも述べたとおり、カズアキさんはミヨ子さんの容態が不安定になってから「いざという時は家族葬にするから」と言いわたしも同意していたが、家族葬にしては大きなホールに、これまた大きな祭壇が整えられている。
カズアキさん一家が以前利用したことがあるので「サービス」してくれたらしい。お嫁さんのお母さんも一時期同居し、3年ほど前にこの地で最期を迎えたのだった。葬祭サービスにもそういう面があるのか。いや、むしろ葬祭こそ人脈と口コミでの営業かもしれない。そういう意味ではよい設えができてありがたいことだと思う。
遺影は平成15(2003)年、自治体主催で金婚式の夫婦を招待してお祝いしてくれた時に撮った写真からトリミングしたものだ。若すぎず年を取り過ぎてもおらず、何よりきれいに写っている1枚から、とわたしが少し前に提案したものだった。
たくさんの生花が飾られた、家族葬には不釣り合いな大きさの祭壇。「そろそろご遺体を移動します」と斎場のスタッフが告げ、ミヨ子さんの棺は祭壇の前に置かれた。棺の窓から何回覗いても、棺の中にミヨ子さんの存在は感じられなかった。――少なくともわたしには。
わたしは、すでに儀式が始まっているのであって、親族もまた斎場がリードする流れに乗るしかないのだと感じていた。(「3月24日②」へ続く)
