文字を持たなかった昭和 終末期47 3月23日 真夜中の電話

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。

 施設(グループホーム)に入所して半年ほど経った昨(2025)年末、ミヨ子さんは体調を崩し入院生活に入った。2月早々には容態が急変したが幸い取り戻した(「その後の容態、2」)が、3月15日、施設入所まで同居していた長男のカズアキさん(兄)から「あと一両日かも」という連絡がもたらされた。

 以降時系列にミヨ子さんと家族の状況を記してきた。再会するも辛くて見ていられなかった3月16日①)、酸素マスクの着用が始まった3月17日①、点滴を減らされても体が適応しているようでもあった3月18日①、実家跡の水仙を届けた3月19日①、二人きりで話せてしっかり反応してくれた3月20日①。わたしは3月21日いったん引き上げ22日にはお嫁さん(義姉)が面会の様子を伝えてくれた。

 22日の夜。日中気の張る用事で外出したせいで、わたしは気分転換に少し遅くまで寝酒を飲んだあと爆睡していた。眠るときスマホは機内モードにする習慣だが、ミヨ子さんの容態が不安定になってからそれは中断し、着信音も最大にセットするようにしていたのに、昼間の用事の時に小さめのボリュームにしたあと戻すのを忘れ、そのまま枕元に置いていた。

 日付は3月23日(日)に変わったが夜明けにはまだ時間がある頃。隣で寝ていたツレが「電話鳴ってない?」と起き出した。暗がりの中でわたしのスマホの画面が光り、午前3時を示している。着信音が切れたと思ったらすぐに固定電話の着信音が鳴り始め、先に起きたツレが出た。真夜中の電話はたいてい良くない報せだ。声の調子からカズアキさんだとわかり、すぐに電話を代わる。

「母ちゃんが、だめだった。1時09分。看護師が夜見回りしたとき異常はなく、急に、だったらしい。眠るような最期だったそうだ」

「それで、お前が帰るタイミングで通夜と告別式をする。ただ、明日は友引だけど、友引だから告別式をやらないというのは仏教的には本来違うらしい。飛行機次第で今日帰れれば今日通夜、明日告別式。明日の飛行機なら明日通夜、明後日告別式だ」

 葬儀全般は、ミヨ子さんがカズアキさん家族と同居した家や、その後入所した施設や終末期を送った病院もある鹿児島市北部の地域の斎場で、家族葬の形で執り行うことは、前々からカズアキさんから提案されわたしも同意していた。

 起き出してまだぼーっとしているうえ、部屋の照明もついていない。固定電話の周りにはメモ紙もない。わたしはいったん電話を切ってかけ直し、メモを取りつつ要点を確認した。カズアキさんは
「10時から斎場と打合せだから、それまでにいつ帰れるか連絡をくれ」
と電話を切ろうとした。わたしは慌てて尋ねる。
「お母さんはいまどこにいるの? 病院?」
「ここ。斎場だよ。いま斎場からかけてる」

 1時9分の死亡確認から3時には斎場の霊安室(?)という展開にわたしの頭は混乱した。いったいミヨ子さんは、どんな最期だったのだろう?

 深く考える余裕もなく、半ばぼーっとしたままわたしは航空会社のサイトを検索し始めた。横ではツレも同じ行動を始めている。

 結局わたしたちはその日の夜鹿児島に着くことになった。カズアキさんはミヨ子さんが亡くなった当日のうちに通夜を執り行いたかったようだが、通夜は翌日、告別式は翌々日してもらった。通夜に間に合わず、着いた翌朝すぐ告別式というのも、それが友引というのも受け入れ難かった。何より、ミヨ子さんとゆっくりお別れしたかった。

 こうしてわたしたちは鹿児島へ向かった。わたしは21日に鹿児島から戻ったばかり、実質的にその翌日の夜中に訃報が届いた形だ。家族がミヨ子さんと会ったのは、22日のお嫁さんが最後だった。(「3月24日」へ続く)

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