文字を持たなかった昭和 終末期34 3月17日① フェイズが変わった
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。
施設(グループホーム)に入所して半年ほど経った昨(2025)年末、ミヨ子さんは体調を崩し入院生活に入り、今年の2月早々には容態が急変したが幸い取り戻した。以降の経緯は「その後の容態、2」に記したとおりで、ミヨ子さんは点滴だけで低空飛行なりに安定していた。
が3月15日、施設入所まで同居していた長男のカズアキさん(兄)から「あと一両日かも」という連絡があり、わたしは再び鹿児島へ飛んだ。面会したミヨ子さんは「3月16日①、②、③」で述べたように、辛くて見ていられないものだった。
3月17日(月)午後、再び面会に向かう。
この日はわたしだけ、病院へ初めて徒歩で行った。JRの最寄り駅(上伊集院)から車ではあっと言う間だが、歩くと20分くらいかかる。病院まではほぼ上り坂で、かつこの日は風が強く、ずいぶん遠く感じた。
一帯は山を拓いた住宅地、途中大きめの地場系スーパーとコンビニがあるくらいで、簡単に言えば山ばかりだ。ミヨ子さんはこの地に約10年住んでいたとは言え、家族かデイサービスの車で移動するだけで、土地勘も住まいの周囲への愛着、地元愛みたいなものは持てないままだったのではないか。
「こんな知らない山の中の病院で、一人で人生を閉じようとしてるなんて…」
わたしは(勝手に)悲しくなったが、ミヨ子さんはもう自分がどこにいるかわからないし、そもそも関心もないだろう。――と思うしかない。
でも、最期をどこでどう迎えるかは、ほんとうはすごく大事なことのはずだ。ミヨ子さんの夫・二夫さん(つぎお。父)は「オレは家の畳の上で死ぬ」と言い続け、望み通りに人生を閉じた。ただし周囲の予想よりかなり早かった。おそらく本人にとっても(そのことはいずれ二夫さんについて書くときに触れるつもりだ)。
病院に着いた。受付で面会予約済みだと告げると、病棟のナースステーションに確認され「2階へどうぞ」と促された。2階に上がり面会記録に記帳する。看護師さんが案内した先に横たわるミヨ子さんは――酸素マスクを着けていた。
戸惑いながら「話してもいいですか?」と確認する。「大丈夫ですよ、聞こえてますから」。
「(酸素マスクは)いつつけたんですか」おずおずと尋ねる。
「今日です」
一時的な措置ではなく、この先も着けたままになるらしい。ミヨ子さんの肺はもう十分な酸素を取り込めなくなってきたのだ。
モニター画面の数値には素人目にも「大丈夫だろうか」というものが混じる。わたしの質問に対する説明も含め、看護師さんはこんなことを教えてくれた。
・血中酸素濃度が下がったため今日から酸素マスクを着用することにした。
・モニターのいちばん下の数値は呼吸数(毎分)で、いまは通常の半分くらい。呼吸は止まることがある。
・点滴も今日から1本(500cc)に減らした。むくみも出ており(水分による)体の負担を減らすため。
・体温は32.8℃とかなり低い。電気毛布の設定はMAXにしている。
点滴を半分に減らしたということは、体に供給されるエネルギーが半分になったということだ。衰弱も進むだろう。目の前のモニターのどれかの曲線が途切れるとき、ミヨ子さんは旅立つのだろうかとぼんやり思う。酸素マスク着用が始まり、点滴も減らされ、ミヨ子さんの終末期はまたひとつ先のフェイズに進んだ――つまりまた一段「その時」が近づいたことは確かだ。
看護師さんは丸椅子を持ってきて勧めたあと、15分の面会時間を守るように言った。病院の規則は知っているが、口頭で念押しされたのは初めてだ。本人の負担を考慮してなのかはわからない。(「3月17日②」へ続く)
