文字を持たなかった昭和 終末期30 危篤?

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、わたしは「万一」も考えて鹿児島へ向かったが幸い容態は安定した。

 「その後の容態、2」に記したとおり、ミヨ子さんは低空飛行を続けながら最後の到達点に向けてゆっくりと高度を下げている状態だ。その間にミヨ子さんは驚くべき復活を見せもし(3月6日)、3月10日には病床で誕生日を迎えた。点滴だけになってから1カ月半、驚異的な生命力だ。

 そんなある日スマホの着信音が鳴動した。長男のカズアキさん(兄)からだ。当然ミヨ子さんの容態についてだろう。緊張して通話を始める。第一声は
「病院から、いつ危篤になってもおかしくない、と連絡があった。今日は仕事だがこれから病院へ向かう」

 わたしは緊張して続報を待ちつつ、頭の中でするべきこととそのための所要時間を目まぐるしく考えた。昼過ぎ、病院に着いたカズアキさんから再び電話が来た。
「午前中、血圧(上)が50台に下がったため看護師が気を利かせて連絡したらしい。一旦落ち着いたがまた70台に下がるなど不安定だ。病室はナースステーション近くに移った。ここ数日尿が減少、今日は200cc程度でむくみがひどい。看護師は、この状態だとあと一両日でしょう、と言っている」

 そして「お前は今まで何回も帰って来てるから、今回は『だめだった』となってから帰ればいいんじゃないか」。

 それもひとつの考え方だけど、親の最期を前にひと目でも会いたい、と思うのが人間の情というものだろう。

 それから支度しても着くのは夜だし、チケットも正規料金で4、5万円する(もちろん片道)。考えた末、翌朝の便で帰省することにした。出発が近い便に適用されるシニア割が使えるのだ。初老にさしかかって不便なことが増えたが、たまにはいいこともある。

 連絡を受けたのは、3月15日(土)午前のことだった。(次は「3月16日①」)


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