最近のミヨ子さん 転院後(4)

転院後(3)はこちら)
 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを、その後明治生まれのミヨ子さんの舅・吉太郎さん(祖父)の物語を綴っている。合間にミヨ子さんの近況などを挟みつつ。

 昨(2024)年6月末に施設(グループホーム)に入所したミヨ子さんは年末近くに体調を崩し、鹿児島市立病院へ緊急搬送されたのだが、1月中旬には、施設入所まで同居していた息子のカズアキさん(兄)宅近くの病院に転院した。その後の様子を順次述べている(転院後(1)(2)(3))。

 今回は、2月頭の昼間に受けたカズアキさんからの連絡について述べる。

 カズアキさんからの電話は緊張する。もちろん、「ミヨ子さんに何かあったのでは?」と思うからだ。そしていやな予感は当たってしまった。

 入院先の病院の医師から電話をもらった直後にくれた電話だったのだが、かいつまむと――
・腎機能が低下し、血圧も低い。意識レベルも低下してきている。
・食事は取れず点滴のみ。
・いつ危篤になってもおかしくない状態。

 市立病院に再搬送してもう少し治療を、ともカズアキさんは考えたようだが、医師から
「市立病院から転院したとき、看取りまでそちらでお願いする、と申し送りを受けている(ので、再搬送はできない)」と言われたらしい。

「そんな話は転院のとき聞いてなかったけど」とカズアキさんは不服そうだった。そしてわたしにこう言った。
「いつまでがんばれるか読めないことだけど、二三四(わたし)は今まで母ちゃんにいろいろしてあげてきたから、急いで帰ってこなくてもいいんじゃないか」
つまり「その時」が来てから駆け付ければ、と。

 わたしも、年末からこのかたの入院・転院の動きを見ていて、「やれることはもう十分やってきた。次に変えるのは万一が起きてからかもなぁ」と考えていた。
「どうするかはお前に任すけど、どっちにするか決めたら連絡してくれ」
とカズアキさんは電話を切った。

 しかし、いざ「万一」が近づいたらしいと知れば、「もうこれ以上できることはない」と、「このまま会わずに送り出すのか」という気持ちの間でやはり心は揺れる。ことに、ミヨ子さんの夫・二夫さん(つぎお。父)が亡くなったときはあまりに急で、ミヨ子さん以外の人は立ち会えなかった。そのことへの後悔も新たに湧いてくる。

 結局わたしは、「万一」を待たずにまた帰省することにして、3日後の早朝便のチケットを手配した。送ってよさそうな荷物は先に送る。礼服を入れながら「こんな仕度をして」と思うが、しかたがない。

 カズアキさんの電話の翌日には、お嫁さん(義姉)がお見舞いに行ってくれて、写真も送ってくれた。写真の中のミヨ子さんは、「転院(3)」でカズアキさんが写真に収めたときよりさらに痩せて、腎機能低下のせいか顔色も悪くなっていた。お嫁さんが看護師に聞いたところによれば、呼び掛けると反応はあるが声は出ないらしい。胸が痛む。

 それでもまだ――それは点滴と投薬のおかげだろうが――「こちら側」にいてくれている。

 ミヨ子さんが「こちら側」にいるうちに、一目だけでも会いたい。同じ鹿児島弁でも地元特有の言い回しで語り掛けてあげたい。待ってて、お母さん。

 ――そんなわけで、noteはしばらく休みます。
(次は「雪の鹿児島へ」)


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