文字を持たなかった昭和 終末期31 3月16日① 再び鹿児島へ
しばらく間が空いたが、鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況を続ける。
施設(グループホーム)に入所して半年ほど経った昨(2025)年末、ミヨ子さんは体調を崩し、以後入院生活を続けている。今年の2月早々容態が急変したが幸い取り戻した。その後ミヨ子さんは驚くべき復活を見せ(3月6日)、3月10日には病床で誕生日を迎えもした。これらの経緯は「その後の容態、2」に記したとおりで、点滴だけになってから約ひと月半、驚異的な生命力だ。
ミヨ子さんは低空飛行なりに安定していたわけだが、3月15日、施設入所まで同居していた長男のカズアキさん(兄)から「あと一両日かも」という連絡があった。翌朝(3月16日)、わたしは今年2回目の鹿児島へのフライトの中にいた。
前回ミヨ子さんの容態が急変した時は、列島全体寒く鹿児島は積雪していて空港までの有料道路が通行止めになるほどで往生した。今回、自宅を出る時は冷たい雨だったものの、鹿児島は余寒の中にも春の気配があった。空港バスからの景色になごみつつ、しかし、そんな景色をミヨ子さんに語って聞かせ、共有することはもうないのだと考え切なくなる。
電車へ乗り継ぎ、まずカズアキさん宅へ向かう。ミヨ子さんが施設入所まで10年近く住んでいた家だ。住んでいた頃の痕跡は徐々に薄れているものの、廊下や洗面所に取り付けた手すりはそのままで、ミヨ子さんが伝い歩きしていた姿を思い出す。あれからまだ8カ月しか経っていない。
病院へはカズアキさんが同行した。ナースステーションで受け付けし、病室へ入る。
ミヨ子さんは静かに寝ていた。先月よりずいぶん小さくなっているが顔はややむくんでいる。心肺をチェックする機器から伸びるケーブルが何本も胸に繋がっている。耳たぶで赤く点灯しているのは血中酸素濃度を測る端末だ。体温が低いため、指先では測れないのだと言う。腕には点滴の管、尿量を測る袋もベッド脇に下がっている。尿管にも管が挿入してあるということだ。
たくさんの管に繋がれ、モニターされ、数値や量を管理、チェックされてミヨ子さんは「生きて」いる。わたしには、何かのデータを収集するために試験台に固定された生き物のように思える。
看護師さんはおおよそ次のような説明をした。
・血圧は低め。前日のようにもっと下がると危ない。
・心拍数や血中酸素飽和濃度は安定している(ただ、面会中に酸素濃度が一度90を切ってアラームが鳴った)。
・点滴は1000cc(2本)。
・尿量の減少が顕著。今日はまだ100cc程度しかない。昨日も1日で200ccだったので、内臓へのダメージが懸念される――など。
カズアキさんがミヨ子さんに「いけんなー」(どう?)と声をかける。ミヨ子さんのほとんど閉じていた目が少し開かれた。わたしはベッド脇の椅子を最大限ベッドに引き寄せ、耳元で語りかける。
「お母さん、二三四だよ、会いにきたよ」
ミヨ子さんは少しだけ目を動かした。入れ歯を取ってしぼんでしまった口がもごもご動き、時折り「あー」と声(音)が洩れる。何か言いたそうに見えるのは、わたしがそう思いたいからか。
「てそかなかな? 痛かとこいはなかな?」(しんどくない? 痛いところはない?)
語りかけても聞こえているのかどうか。でも届いていると信じて、ぽつぽつと話す。手を取ってさすり、時々顔を撫でてあげる。手を握ると握り返してくれるが、わかっていてそうするのか、赤ちゃんが手に触れたモノを握ろうとするような「反射」なのかはわからない。(次項へ続く)
