文字を持たなかった昭和 終末期42 3月20日① 仙厳園をいっしょに…
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。
施設(グループホーム)に入所して半年ほど経った昨(2025)年末、ミヨ子さんは体調を崩し入院生活に入った。2月早々には容態が急変したが幸い取り戻した。
以降の経緯は「その後の容態、2」に記したが、3月15日、施設入所まで同居していた長男のカズアキさん(兄)から「あと一両日かも」との連絡があり、わたしは再び鹿児島へ飛んだ。ミヨ子さんの様子は辛くて見ていられず(3月16日①、②、③)、酸素マスクの着用も始まったが(3月17日①、②)、点滴だけで命を削っているようなミヨ子さんの体はその状態にも適応しているようでもあり(3月18日①、②)、わたしはお見舞いを続けた(3月19日①、②、③、④)
3月20日(木)春分の日。14年前に亡くなったミヨ子さんの夫・二夫さん(つぎお、父)の誕生日でもある。
ミヨ子さんとの面会は午後4時、それまでまた時間があるので――というか、帰省しても1日15分間の面会に行く以外とりたてて用事はないのだ――幕末までの薩摩藩主・島津家の別邸があった仙厳園へ行ってみることにした。
桜島が浮かぶ錦江湾(鹿児島湾とも)を北側に位置するこの一帯は以前「磯庭園」と呼ばれ、わたしも子供の頃バス遠足で見学した記憶がある。小学生にとって、昔のお殿様の庭園はたんなる「きれいな広い庭」で、ほとんど印象はない。そもそもわたし(たち子供)には、庭園はもちろん島津の殿様も遠い存在でしかなかった。
それらに興味を持つようになるのは、大人になって多少なりとも歴史、ことに封建制度に関心が向いてからだ。わたしの場合、薩摩藩の歴史や政治への興味には、藩政強化のための年貢取り立ての結果である百姓の貧しさや、女性への抑圧という側面も含まれる。
磯庭園を仙厳園と呼ぶようになったのはいつ頃かよく知らない。旧邸宅を改装し、庭園とともに(部分的に)開放することで、一種のアミューズメント施設というか、ひらたく言えばより現代的な観光地にした、ということだろう。経営者は島津家の末裔だ。
ここへ行く気になったのは、数日前の3月15日にJRの「仙厳園駅」が新設されたこと、JR九州にとっては何年振りかの新駅開業であることなどで、県内では話題になっているからだった。
仙厳園駅は鹿児島中央駅から日豊線で2駅めだ。昼前の電車に乗ったのだが、中央駅では明らかに仙厳園目当てらしき観光客、ことに外国人の姿が目立ち、2両編成の電車はかなり混んでいた。仙厳園駅に着くとホームの目の前は桜島だ。なんでも海からいちばん近い駅(のひとつ)らしい。
この日は、いずれ仙厳園をゆっくり見学するときのために短時間のリサーチのつもりでいた。そのため旧邸宅の中や薩摩切子工場などの見学はしなかった。ただ、幕末の島津氏が、山を背にしたこの地から桜島や錦江湾を眺めて殖産興業や国防に思いを巡らせたときの気持ちを、ちょっと想像していた。
もうあまり長くはないであろう母親のお見舞いに来たのに遊びに行く、というのはもちろん気が引けた。しかし、病室で夢現のミヨ子さんの心(魂)はすでに自由になっているという確信のようなものがわたしには生まれていた。
だからこの日も「ミヨ子さんもいっしょに電車に乗って磯庭園へ行くのだ」という気持ちだった。わたしはずっと心の中で、ときには小声でつぶやきながら歩いていた。
「お母さん、見てん、桜島が大(ふ)と見ゆっなー」(見て、桜島が大きく見えるね)
「よか日よいじゃな。お客っさあもずんばい来ちょいやっなー」(いい日和だね。お客さんもたくさんいらしてるね)
「庭をみごつしちょっきゃっなー」(庭をきれいにしてらっしゃるね)
などと。
ミヨ子さんは病室のベッドから抜け出して、わたしといっしょに桜島を眺め、庭園を歩いてくれていた、とわたしは思う。(「3月20日②」へ続く)
