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文字を持たなかった昭和 終末期38 3月19日① 2か所のお墓参り

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。

 施設(グループホーム)に入所して半年ほど経った昨(2025)年末、ミヨ子さんは体調を崩し入院生活に入った。2月早々には容態が急変したが幸い取り戻した。

 以降の経緯は「その後の容態、2」に記したとおりだが、3月15日、施設入所まで同居していた長男のカズアキさん(兄)から「あと一両日かも」との連絡があり、わたしは再び鹿児島へ飛んだ。ミヨ子さんの様子は辛くて見ていられず(3月16日①)、酸素マスクの着用も始まったが(3月17日①)、点滴だけで命を削っているようなミヨ子さんの体はその状態にも適応しているようにも見えた(3月18日①

 3月19日(水)。この日の面会はカズアキさんの都合に合わせ夕方に予約してあった。

 時間があるので、わたしはミヨ子さんが入院する町(カズアキさんが住む町でもある)からJRで5駅北上した位置にあるミヨ子さんの、そして自分のふるさとを訪ねた。

 まず実家の菩提寺である浄土真宗(大谷派)のお寺を訪ねる。一族のお墓は昭和の半ばくらいまで地域の山の上にあったが、その後より集落に近い丘に移され、昭和の終りか平成の初め頃、菩提寺が納骨堂を建てたタイミングで、ミヨ子さんにとって舅・姑(祖父母)の代の分から納骨堂の一区画にお墓を移した。したがっていまお墓参りと言えば、その区画の祭壇――お仏壇みたいなものだ――を拝む形だ。

 この納骨堂や「お墓参り」についてはnoteにも何回か書いていて、直近では「終末期15 兄妹での外出①」でも触れた。納骨堂は屋内だし、24時間開放なのでいつでもお参りできるのがありがたい。心静かにまず阿弥陀如来を拝み、続いてわが家の区画の祭壇の扉を開いて、ご先祖に手を合わせた。「お母さんが安らかに過ごせますように」と祈りながら。

 墓参りのときには近場のコンビニなどでお供えを買って行く。日持ちする小さなお菓子と焼酎の小さいペットボトルが定番だが、お彼岸ということもあり、ミヨ子さんの亡夫・二夫さん(つぎお。父)が好物だった最中もひとつ供えた。お彼岸の間にカズアキさんが引き取っていくだろうという前提だ。

 お参りのあと、30分ほど歩いてミヨ子さんの、そしてわたしのふるさとである集落へ向かう。ペーパードライバーのわたしは帰省しても誰かの車に乗せてもらうのでなければ歩くしかない。観光資源が少ないこの小さな町にはレンタサイクルもないから、自転車に乗れる以前の子供時代に逆戻りだ。

 まずミヨ子さんの両親(母方の祖父母)が眠るお墓をお参りした。わが家のお墓は「昭和の半ばくらいまで地域の山の上にあったが、その後より集落に近い丘に移され」た、と前述した。同じ集落にあったミヨ子さんの実家の方のお墓は、その「近場の丘」に残ったままだ。

 わたしの従弟に当たる墓守が近隣には住んでいないせいか、お墓はだいぶ荒れていた。それは予想できたことでよほど途中で花を買いたかったのだが、徒歩の身で持てる荷物には限界があるので諦めた。

 ただ、コンビニでお供えを買うときお線香などは買っておいた。せめて、という気持ちで、お墓の脇に置きっぱなしで長く使っていないらしき箒で、お墓の周囲に積もった枯れ葉を大雑把にだが掃き集める。墓前の湯飲みを洗い、きれいな水を入れ、これまたコンビニで買ったきんつば1個を墓石の台に置いた。

 最後にお線香に火をつけて供え、ミヨ子さんの両親に手を合わせる。
「じいちゃん、ばあちゃん、お母さんは近いうちにそちらに行くかもしれないけど、それまで安らかに過ごさせてあげてください」
(「3月19日②」へ続く)

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