文字を持たなかった昭和 終末期15 兄妹での外出①
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいて、いつ「そういうこと」になってもおかしくない状況だ。(ミヨ子さんの現状についても述べた前項「その後の容態」はこちら)
最初の容態急変を受けてわたしはお別れも覚悟して一旦鹿児島へ向かったもののミヨ子さんは持ち直し、1週間ちょっといて自宅へ戻ってきた。面会の合間はミヨ子さんの持ち物を整理したりして過ごしていたのだが、その間のできごとを書き足しておきたい。
時間は、帰郷して面会を果たしたあと持ち物整理をした時点にさかのぼる。持ち物整理の翌日、2月8日の土曜日。ミヨ子さんが半年ほど前まで同居していた長男のカズアキさん(兄)が「明日元屋敷(実家跡)方面に用事があるから、行きたいところがあれば連れていくぞ」と声をかけてきた。
noteでも何回か触れているが、カズアキさんは実家跡で家庭菜園を営んでおり、昔馴染みとの作物についての情報交換はもちろん、集落の行事などにも参加していて「半住民」状態だ。もっとも郷里までは車で30分ほどかかり、ガソリン代もばかにならない様子ではある。
わたしは「じゃあ、お寺参りに連れていって」と頼み、ついでに買い物することにした。
まずはお寺である。わが家の菩提寺の納骨堂には、14年前に亡くなったミヨ子さんの夫(父)や死産した子供(生きていたら兄)、舅姑(祖父母)、舅の最初の奥さんと生後間もなく亡くなった女の赤ん坊が眠っている。納骨堂の扉は24時間開放、天気の影響もなくいつでもお参りできてありがたい。
堂内にはいくつ「お墓」があるのか数えたことはないが、100基では利かないだろう。幸いご先祖が眠る区画は入ってすぐのところにある。まずいちばん奥の阿弥陀如来の前に進み、焼香してご挨拶する。それからわが家の「お墓」の扉を開ける。中央に過去帳が置かれているお仏壇のような祭壇に手を合わせ、心で祈る。
それぞれの「お墓」には、扉を開けると自動的に点灯する燭台と造花があるが、すべて造り付けだ。逆に生花や香炉は置けず、お焼香もできない。もちろん防災や管理上の問題を予防するためである。せいぜいペットボトル入りの水や賞味期限の長いお菓子お菓子を少しお供えする程度だ。そもそも狭いのでお供えできるものは限られる。
そのお供えも「できるだけ早く持って帰ってください」と、堂内に最近貼り出された掲示に注意書きがある。わが家の場合水ではなく焼酎の小さいボトルとおつまみを供えてあるが、これはどちらかと言うと、お参りしてはお供えのお裾分けに与るカズアキさんの好みだ。
納骨堂でのお参りはこんな感じですぐに終わる。あっけないと言えばあっけない。しかもカズアキさんは、その二日前の父親の命日に来たから、と車から降りなかった。お墓参りは何回行ってもいいのに、と思うが言えない。父親が亡くなって以来、カズアキさんはわたしにとってある意味「家長」なのである。
しかし、もう初老と言っていい兄妹二人で外出する機会などめったにないし、この先もほとんどないだろう。ミヨ子さんの口癖は
「ふたいしかおらんきょでじゃっで、仲ゆせんとよ」(二人しかいない兄妹だから、仲良くしなさいよ)
だった。まあ、主に私に向けられ、それは「兄ちゃんを尊重しなさい」という意味でもあることはわかっていたが。
この日の外出は、ミヨ子さんの采配というかプレゼントだったのかもしれない。(次は「兄妹での外出②」)
