文字を持たなかった昭和 終末期12 持ち物整理(5)お腹を痛めた証
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。(前項「持ち物整理(4)アクセサリー類」はこちら)
昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、わたしは鹿児島へと向かった。ミヨ子さんは一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいる。病院規定で面会の間隔を空けなければならず手持無沙汰なわたしは、ミヨ子さんの持ち物を確認すべく押入れを開け、衣類、手紙類、アクセサリーなどを整理していった。
アクセサリーと同じ箱の底の方には「大島紬」のラベルのある桐の小箱があった。頂きものの大島紬地の財布が入っていた箱らしいが、財布は出してある。では箱の中身は? 蓋を開けると、さらに小さい箱がふたつ並んで入っている。ひとつを開けると綿が見えた。
また何か大事なアクセサリーだろうか、と思いながら引っ張り出すと、短く切った細い髪の毛がほんの一束包まれている。その下にはもうひとつ綿でくるまれたものがある。わたしは「それ」が何であるかほぼ想像できていた。少し変色した綿をそっと開くと、黒っぽく干からびた「何か」が現れた。
ふと小箱の裏を見ると、ミヨ子さんの長男・カズアキさん(兄)の名前や生年月日などが記されている。それぞれの欄に収まるようていねいな字で書かれているところから、赤ん坊のへその緒と初めて切った髪の毛をしまっておく専用の小箱に思われた。
もうひとつの箱の中身はもう見なくてもわかる。裏を見ると、果たしてわたしの生年月日や名前などが記されていた。そっと蓋を取ると、やはり綿にくるまれたものがふたつあった。
桐の箱の下からは二冊の母子手帳も出てきた。その場で開いて見ることはしなかったが、いかにも昭和30年代らしいフォントと挿絵の手帳は、どちらもうっすら変色している。
ここnoteで何回か触れたように、嫁いですぐに携わったミカン山の開墾での重労働のゆえか、ミヨ子さんは最初の子供を死産で失った。そのあとに授かった子供を、どれほどの思いで守り、産み、育てたことか。その2年余りあとに授かった子供も同じように慈しんだことだろう。自分の命に代えても守りたい存在だったかもしれない。
そのおかげでわたしたち兄妹は生まれ、育ってきた。その証をミヨ子さんは60年以上も大切に保管していた。夫を亡くして息子との同居が始まり、嫁いで50年以上暮らした家が取り壊されるときには、お腹を痛めた証としていちばん重要だったものを、おそらく真っ先に「持って行く荷物」に入れただろう。古い綿や色の変わった母子手帳は、母親としての執念にも似た決意を語っていた。
さらに、少し大きくなった頃に集団で確認したときのものらしい子供たちの血液型の証明書、自動車が増え「交通戦争」と言われ始めた頃に加入したのであろう子供用の交通事故傷害保険の保険証なども出てきた。裕福とは言えない暮らしの中で、どれだけの思いを子供たちに寄せていたのか。「ありがたい」という言葉だけではとうてい表せない。
ミヨ子さんが使ってきた押入れを開けて半日、いちばん大事にしてきたと思われる品々にたどり着いたあと、わたしは考えた。
もしかするとお別れをすることになるかもと思いながら帰省したが、幸いミヨ子さんは安定し、わたしは思いがけず時間ができてしまった。
「その間に、あたしの持ち物をあんたが見て片づけてちょうだいね」
ミヨ子さんはわたしにそう託したのではないか。
へその緒や母子手帳は、わたしがこの世を去るまで預かろう。ミヨ子さんもそれを望んでいる気がする。(次は「余談。相続ということ」)
※メインタイトルを「最近のミヨ子さん」から「文字を持たなかった昭和 終末期」に変更しました(2025/3/1)
