文字を持たなかった昭和 終末期13 余談。相続ということ

 このところ、鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況を綴っている。

 昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいる。お別れも覚悟して鹿児島へと向かったわたしだったが、病院規定で面会間隔を空けなければならず、手持無沙汰に任せてミヨ子さんの押入れを開け持ち物を整理、わたしたち兄妹のへその緒や母子手帳がしまい込まれていたことも知った。

 持ち物整理の記述に時間をかけたが、すべて移動とお見舞いの翌日、つまり2月7日のことである。その後のミヨ子さんについて先に書くと、ブドウ糖点滴を続けながら生きながらえている。容態急変から4週間近く、お見舞いからも3週間以上経った。

 「若い頃けして丈夫でなかったミヨ子さんが、こんなに長くがんばれるなんて」というのが率直な気持ちだ。「雪の鹿児島へ」からあとの項は、いったん自宅へ戻って落ち着いてから書き始めた。いつまた呼び戻されるか緊張しながら。しかし、形見分けとも言っていい持ち物の整理は、へその緒まで書き終えた。ミヨ子さんが「書いておいて」と言ってくれているのかもしれない。

 いつ「危篤」あるいは「急に旅立った」という連絡があるか、という状況は変わっていない。殊の外寒かったこの2月が終わり陽気が緩む季節を迎え、ミヨ子さんはいつまで夢現を楽しむのだろう。と考えてはそれを打ち消す、を繰り返している。

 そんな状況でまとまった用事、とくに人との約束や長時間の外出の予定を入れられないまま、手元の本を少しずつ読んでいる。図書館でたまたま目について借りた五木寛之の『こころの散歩』もその1冊だ。

 老齢の(と言っていいだろう)氏がさまざまなテーマで書いたエッセイを集めたものだが、終わり近くに「相続」について3篇ほどある。氏はここで、一般的な財産・不動産などではなく、見えないもの、あるいは引き継がれなかったものについて語っている。

 氏は、父親、母親から「相続」したものについて具体的に述べる。それはしつけ、教育と言っていいものであり、あるいは行動を通した子への教え、影響と言えるものだとわたしは理解した。

 思えば、昔の親たちは「子供を一人前にして社会に送り出さないと、そのためには、ちゃんと教え導かないと」という意識が強かったのではないか。「親としてきちんとしていなければ」という意識は子供に対峙するときのもう片方の車輪でもあっただろう。

 そういった親としての意識はもちろんだが、意識していない部分も含めて、子供はさまざまに親の影響を受けて育つ。それは自分の来し方、いまの自分を見ていてもよくわかる。この年になって親の来し方を(とうてい全部とは言えないが)振り返って、なおさらその思いを強くする。

 わたしはミヨ子さん、そしてその夫の二夫さん(つぎお。父)から多くの有形のものを与えられた。裕福ではなかったが、その時どきで二人が心を込めて、「せめて人並みに」とがんばって用意してくれた。そのことに十分感謝している。

 しかしもっとも感謝すべきは、与えられた、あるいは二人が知らずしらず与えてしまった無形のものの数々なのかもしれない。(次は「その後の容態」)

※メインタイトルを「最近のミヨ子さん」から「文字を持たなかった昭和 終末期」に変更しました(2025/3/1)


いいなと思ったら応援しよう!