文字を持たなかった昭和 終末期14 その後の容態
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。(前項「余談。相続ということ」はこちら)
昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいる。お別れも覚悟して鹿児島へ向かったわたしだったが、病院規定で面会の間隔を空けなければならなかった。 ミヨ子さんの押し入れの整理など待機中の様子を綴ってきたが、ここらでいったんミヨ子さんの容態について整理しておきたい。
2月6日(木) 二三四(わたし)帰省、1回目の面会(面会①)
2月7日(金) ミヨ子さんの持ち物の整理(持ち物整理(5)お腹を痛めた証など)
2月11日(火) ミヨ子さんの末妹・すみちゃんが屋久島からお見舞いに来る。姉妹二人だけで面会時間を過ごした。※詳細は追って記述予定。→「末妹すみちゃん上陸」
2月12日(水) 二三四2回目の面会、翌日二三四はいったん自宅へ戻る
この日ミヨ子さんはあまり反応せず。血圧等は安定、低体温対策で使っている電気毛布の温度はMAXに設定しているとのこと。※詳細は追って記述予定。→「2回目の面会」
2月14日(金) 施設入所前まで同居していた息子のカズアキさん(兄)が面会
ほとんど反応なし。電気毛布の温度はやや高め、各種数値は低い値で安定。点滴1000ccに対して尿量は900cc。
2月21日(金) お嫁さん(義姉)が面会
名前を名乗ると誰かわかった様子で少し反応あり。看護師さんによれば問いかけに応じてくれる時もあるとのこと。
2月28日(金) カズアキさんが面会
名前を名乗ると頷いて、看護師さんをびっくりさせる。呼吸や血圧に乱れがあり、尿量も400~500ccに減少。白眼の黄疸、皮膚の乾燥などが見られるが、本人に苦痛はなく穏やかに衰弱してきている、あと(どのくらいもつか)は生命力次第、との説明を受ける。
――カズアキさんたちからしばらく連絡がないなぁ、便りがないのはよい便りということだろうか、と考えようとしていた矢先に28日の連絡だった。正直、動揺している。
インターネットで「黄疸」「尿量減少」「余命」などのキーワードで検索すると、終末期の看護や介護に関する複数の記事には以下のような記述があった。
・バイタル(血圧等の基本状態)が不安定になるのは身体機能の衰退による
・尿量減少は腎機能低下によるもので、排出されない水分が体内にたまっていく予兆。いずれほとんど排尿できなくなる(その状態で数日命を保つケースもある)。
ミヨ子さんはこのところしばらく「低空飛行」というか、値が低いなりに安定はしていたから、これはもしかすると3月10日の誕生日までがんばれるのではないか、と期待もし、若干戸惑いもしていた。しかし、自分の肉体を削りながら命を永らえるいまの状況に、90歳を超えた体はいずれ限界が訪れるのは明らかだ。
数日中に「どうこう」はないかもしれないが、そう遠くないタイミングで、再び帰省することになるだろうと覚悟している。
その時noteはまた中断する。それもあって、先に現状を記しておくことにしたのだった。
願わくは、その「タイミング」が少しでも後でありますように。――と書くのが定石だろうが、わたし自身は、もうだいぶ前から「お母さん、がんばらなくていいからね」と心の中で呼びかけてきた。何も口にできず、お見舞いも数日に1回誰かが15分程度顔を出すだけの「終末期」を、もとより母親に送らせたくなかった。
それでも、「その時」が近いかもしれない、と考えるとやっぱり動揺する。人の気持ち、親子の情とはそういうものだろう。(次は「兄妹での外出①」)
