文字を持たなかった昭和 終末期18 末妹すみちゃん上陸
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、一時より安定したものの点滴だけで命をつないでおり、いつ「そういうこと」になってもおかしくない状況だ。(ミヨ子さんの「その後の容態」はこちら)
最初の容態急変を受けてわたしはお別れも覚悟して一旦鹿児島へ向かったもののミヨ子さんは持ち直し、1週間ちょっといて自宅へ戻ってきた。面会の合間にはミヨ子さんの持ち物の整理や、長男のカズアキさんと兄妹での外出、郷里の友人や姪に会うなどして過ごした。いずれもミヨ子さんが娘のために時間を作ってくれたのだと思っている。
そんな中での2月9日(日)。カズアキさんが「明後日(11日の建国記念日)、姉ちゃんに会いに陸(おか)に上がるから港まで迎えに来て、ってすみちゃんから電話があった」と告げた。直近では「兄妹での外出②」で触れたように、すみちゃんはミヨ子さんの末の妹で屋久島在住だ。朝いちばんの高速船「トッピー」に乗るが、どうしても泊まれないので「上陸」時間は3時間半程度という強行軍らしい。
カズアキさんは「母ちゃんが入院中だって、俺、年賀状に書いたっけかなぁ」と呟いたあと、「お前、すみちゃんに母ちゃんのことを何か言ったのか?」とわたしに質問(というかほぼ詰問)した。わたしは「言ってないよ」と答えた。
病院の面会は通常午後だが頼み込んで午前11時にしてもらった、面会時間は規定通り15分間だ――とカズアキさんは付け加えた。わたしは、少しぐらい長めにいても病院も目をつぶってくれるだろうと考えた。
2月11日。トッピーは幸い定刻どおり入港した。港へはカズアキさんが迎えに行き、いったんカズアキさん宅で一息入れたあと、きっちり11時に着くようすみちゃんを病院に送って行った。面会はすみちゃんだけで、ミヨ子さんと二人で過ごした――らしい。
「らしい」というのは、わたしは当日午前外出の用事を入れてあり、すみちゃんとは面会後に会ったからだ。すみちゃんを港へ送る途中、鹿児島中央駅近くで3人で昼ご飯をご一緒することにしてあった。
昨秋屋久島に行きすみちゃんとはいわば「会ったばかり」なので〈311〉、近況はだいたい知っている。昼食場所に着席早々「お母さん、どうだった?」とすみちゃんに尋ねる。「声をかけると目を開けてくれたよ」と言い「私だって、わかってくれたと思う」と付け加えた。その様子から、はっきりした反応はなかった印象を受けた。
しかし、姉妹だけで濃密な時間を過ごしたことは確かだろう。すみちゃんは何も語らなかったが、ミヨ子さんの耳元でたくさんの共通の思い出を語って聞かせたことだろう。それは二人だけの宝物の時間だったはずだ。
わずか3時間半の上陸時間のために高速船のチケットを取る手間と費用、それに車を持たないすみちゃんが朝いちで港に行くのに誰かに送ってもらうための手配など、簡単ではなかっただろう。それでもわずかな面会時間のために、すみちゃんはやってきた。たぶん、あとあと「会っておけばよかった」と後悔しないために。
わざわざ離島からやってくる高齢のきょうだいの面会時間が多少延びたとしても、病院側はおそらく見て見ぬふりをしただろう。しかしカズアキさんはその点「厳格」だ。融通が利かないと言っていい。きっちり15分の面会時間のあと「これから病院を出るから」とわたしに電話してきたのだから。
おかげで昼ご飯はゆっくり食べられたが、ご飯なんておにぎりでもなんでも、なんなら食べなくてもいいから、面会をあと10分でも15分延ばしてあげてほしかった、とわたしは思う。
ただ、その点すみちゃんは古い鹿児島の典型的な男性優先を実践しているらしく、カズアキさんの「指示」には従順だ。旦那さん(叔父)もかなりワガママだったこともあり「九州男児はそんなもの」と思っているフシがある。九州男児もいろいろですがね。
突然のすみちゃん上陸には驚かされたが(ということにしておく)、「間に合わなかった」ということにならずにほんとうによかった、とわたしは思う。
すみちゃんはお土産に屋久島特産のタンカンを持参した。大きなリュックを担いできてカズアキさん一家を驚かし、下ろしたリュックからタンカンの5kg箱を出してまた驚かせたらしい。「二三四も少し持って帰ってね」と言われたタンカンは、大きくて色が濃く、屋久島の太陽の味がした。できることならミヨ子さんにも食べさせてあげたかった。(次は「2回目の面会」)
〈311〉昨秋屋久島へ行ったことは、昨年11月初めに「つぶやき」として何回か綴った。叔母については「屋久島栗生地区の墓地」「屋久島栗生地区の旧街道」「島のひとり暮らし」などで触れている。
