文字を持たなかった昭和 終末期19 2回目の面会

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいて、いつ「そういうこと」になってもおかしくない状況だ。(ミヨ子さんの「その後の容態」はこちら

 容態急変を受けた当初、わたしはお別れも覚悟して鹿児島へ向かった。面会の合間にはミヨ子さんの持ち物の整理や、長男のカズアキさんと兄妹での外出郷里の友人や姪に会うなどした。屋久島在住のミヨ子さんの末妹すみちゃんもお見舞いに来た

 そうやって様子を見ていたがミヨ子さんの容態が安定しているので、わたしはもう一度面会したら一旦自宅へ戻ることに決めた。病院規定で面会間隔を空けなければならないから、まだ1回しかお見舞いできていなかったのだ。

 2回目の面会は2月12日(水)の午後。お嫁さん(義姉)が病院まで送ってくれた。車の中でおずおずと「最後の何分かだけでも、お母さんと二人で話したい」と言ったら「二人で会って。私は最初に様子だけ見たらすぐに出るから」。はじめからそのつもりでいてくれたのだろう。

 その日は雨だった。病院の駐車場で車から降りたときは小降りだったので、傘を持たずに玄関に入った。受付で面会予約をしてあることをお嫁さんが告げ、2階の病棟へ上がる。ナースステーションでは看護師さんが最近の状況について簡単に説明してくれた。いわく、
・低体温状態(33~34℃)は続いていて、電気毛布の温度設定はMAX。
・血圧は安定している。
・衛生維持と乾燥防止のため口内を拭くのだが、たまに嫌がるような反応を見せる――。

 6日前の前回と同じく4人部屋の病室の窓側のベッドにミヨ子さんはいて、この日はマスクを着けていた。これも乾燥防止のためだろう。顔は目から上しか見えない。お嫁さんが大きめの声で「お義母さん」と呼びかけたが、ミヨ子さんはうっすら目を開けたぐらいであまり反応しない。

「ゆっくりお話しして。私は受付にいるから」とお嫁さんは言い残して病室を出た。わたしはカーテンを引き、母と子の、しかし短い時間を過ごした。以下は面会あとのメモから。

 2/6の面会の時より、お母さんは痩せて小さくなっていた。声がけしても目が開かないし、開いても見てくれない。
 お母さん。何が見えてるの? 私は、語る言葉を持たない。「二三四だよ」と繰り返すしかない。子供の時のように「母ちゃん」、ミヨ子さんのお友達をまねて「ミヨ子さん」「ミヨちゃん」…どう呼んでも答えてくれない。外は雨だよ。ふるさとに帰りたいね。とりとめのないことをぽつりぽつり言い、小さくなった頭を抱く。
 家のすぐ上のお墓にも行ってきたよ、と伝えた時は、目が開かれて動いたと思う。お墓に眠るミヨ子さんの両親の魂が、なにか囁いたのか。
 面会の最後近くに布団の中の両手を握って擦った時、また目が動いた。何かが伝わっていたのだと思いたい。
「長(な)ご気張ったな。ゆっくい寝いやんせ」(長いことがんばったね。ゆっくり休んで)と言ったあとに、それでいいのかと思い直す。だけど―――それは本心。お母さんは、もうここにはいなくて、時々呼び戻されてるだけの気もする。
 今日、どうしてもしておきたいことがあった。それはお水を含ませてあげることと、甘いものが大好きなミヨ子さんにかるかん饅頭のあんこを舐めさせてあげること。
 水で湿らせておいたコットンで唇を何回か拭いた。あんこは指先にほんの少し取って、舌の先に塗ってあげた。指に触れた舌は、思いのほか柔らかく、赤ちゃんのようだった。どちらも、妄想し期待したような、ふいに覚醒したり、あるいは待っていたかのように容態が急変することはなかった。
 医療的にはありえない今日の行動で、私は死に水を取ったつもりでいる。万一間に合わなくても、餞は渡したと思っている。
 お母さん。3月10日の誕生日まで頑張ったら?
 お母さん。お母さん。いまどこにいて、何が見えてるの?

(次は「後ろ髪を引かれつつ」)

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