文字を持たなかった昭和 終末期11 持ち物整理(4)アクセサリー類
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。(前項「持ち物整理(3) 手紙など」はこちら)
昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、わたしは鹿児島へと向かった。ミヨ子さんは一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいる。病院規定で面会の間隔を空けなければならず手持無沙汰なわたしは、ミヨ子さんの持ち物を確認すべく押入れを開けた。衣類、続いて手紙類を整理する。
ミヨ子さんがふだんよく使うもの――ヘアブラシや入れ歯ケースなど――は押入れを開ければすぐ手が届くところにあった。その奥には、なにやら古ぼけた箱がある。いかにも「元の家にいるときから大事にしまってありました」という雰囲気だ。
ミヨ子さんの心の中に黙って踏み込んでいくような罪悪感を覚えながら箱の蓋を取る。中からは紙の小箱や指輪ケースのようなものがいくつも出てきた。明らかにアクセサリー類だ。
もう何十年も蓋をしたままだったであろうそれらをひとつひとつ開けていく。「お母さん、勝手に開けてごめんね」と心でつぶやきながら。
現れたのは、ネックレスや指輪、ブローチ、ネクタイピン等など。お土産らしいネクタイピンと指輪は虹色の宝石をあしらったお揃いだ。それぞれ中国風の布製のジュエリー入れに入っている。昭和40年代半ばだったか、ミヨ子さんの下の弟、わたしにとっての叔父が台湾旅行に行って、わたしは小さい灯籠飾りをもらった。あのとき叔父は「義兄(にい)さんたちに」と対のアクセサリーを贈ったのだろうか。
珊瑚らしいネックレス、何で作られたのかわからないブローチもある。ミヨ子さんが自分で買ったとは思えないし、これらのアクセサリーをつけていた記憶もない。アクセサリーをあしらうようなおしゃれをすることなど、ほとんどなかったからだ。そんな暮らしを送りながら、大事に大事にしまっておいたのだと思うと、切ない。
昭和45(1980)年に開催された大阪万博の記念品もあった。万博では日本各地の郷土芸能やお祭りが披露され、わたしの郷里の「七夕踊り」も加わったこと、踊りの世話役でもあった夫の二夫さん(つぎお。父)も地域の男性たちとともに参加したことはnoteに書いた〈310〉。シンボルマークがあしらわれた記念メダルには二夫さんのフルネームがローマ字で刻まれている。世界にひとつしかないメダルを、ミヨ子さんは息子との同居先まで持ってきたのだった。
同じ箱には古い写真もあった。それらの写真をしみじみと見返して「分析」するほどの時間的、心理的な余裕はなく、とりあえず「これだけは」と思うアクセサリーのいくつかとともに、自分がしばらく保管しておくものとして取り分けた。
つまり、多くのアクセサリー類は処分されてしまうことになる。ミヨ子さんの生きた証が捨てられるであろうことには胸が痛むが、すべてをとっておくわけにはいかない。わたしは、ミヨ子さん夫婦の思い出になるもの、ミヨ子さん自身に特別な思い入れがあるであろうものを選んだ――つもりだ。(次は「持ち物整理(5)お腹を痛めた証」)
〈310〉鹿児島県の無形文化財にも指定された「市来の七夕踊り」が大阪万博に参加したことについては、ミヨ子さんの舅(祖父)吉太郎さんについて綴っている「文字を持たなかった明治 吉太郎」の「108 昭和45年」で触れた。踊り自体については、ミヨ子さんの半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「百三十六 七夕踊り、その一」~「百四十 七夕踊り、その五」に画像つきでかなり詳しく述べている。
※メインタイトルを「最近のミヨ子さん」から「文字を持たなかった昭和 終末期」に変更しました(2025/3/1)
