文字を持たなかった昭和 終末期45 3月21日から22日① いったん帰宅
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。
施設(グループホーム)に入所して半年ほど経った昨(2025)年末、ミヨ子さんは体調を崩し入院生活に入った。2月早々には容態が急変したが幸い取り戻した(「その後の容態、2」)。
しかし3月15日、施設入所まで同居していた長男のカズアキさん(兄)から「あと一両日かも」との連絡を受ける。以降時系列にミヨ子さんと家族の状況を記してきた(再会するも辛くて見ていられなかった3月16日①、②、③)、酸素マスクの着用が始まった3月17日①、②、点滴を減らされても体が適応しているようでもあった3月18日①、②、実家跡の水仙を届けた3月19日①、②、③、④、二人きりで話せてしっかり反応してくれた3月20日①、②、③)。
そしてわたしは3月21日(金)、いったん首都圏にある自宅へ引き上げた。「低いレベルなりに安定している」という看護師さんの説明を、半ば疑い、半ば信じ――いや信じたいと思いつつ。
不思議だったのは、前回2月の帰省から戻る時は機内で「次に会うときミヨ子さんはもういないかもしれない」と思い涙を押さえられなかったのに(終末期20 後ろ髪を引かれつつ)、この日の機内ではそんな差し迫ったような気持ちや感慨といったものはほとんど湧いてこなかったことだ。
あるいは、点滴の管や心電図のケーブルに繋がれてほとんど骨と皮のようになり、語弊を承知で言えば人相まで変わってしまったミヨ子さんを毎日見舞うことで、わたし自身娘としてできることはもう何もない、と感じたせいかもしれない。
じっさいのところミヨ子さんは、わたしが物心ついてか何十年も見慣れてきた母親の、晩年ならおばあさんの、そしてときに一人の女性としてのどの顔でもなくなっていた。
もちろん、だからと言って「気持ちに区切りがついた」というのでもない。不可抗力を前に何か大切なものを手放さなければならないときの諦め、とでも言えばいいのだろうか。(母)親と同じくらい大切な「何か」に何があるか、にわかには例えが見つからないが。
この日、ツレは重要な用向きのため休みを取って出かけていた。わたしは帰宅したあとまず旅装を解いた。しかし、洗面用具などの旅行用品はたぶんまたすぐ使うことになるだろうと考えて、キャリーケースに入れたままにする。洗濯するものを取り出したあとは、家の中を簡単に掃除した。うっすらホコリが積もっているが拭き掃除まで手が回らないし、なにより気力が続かない。
翌22日(土)、こんどはわたしが外出した。前項でも触れたようにだいぶ前から入っていたもので、この日でなければならない用事だった。もっとも外出している間、わたしはあまり集中できていなかったと思う。どこか心ここに在らずというか、人格が分断されているような心持ちがしていた。
それでも、この両日をなんとか終えられたことについて、わたしはミヨ子さんに感謝した。ある意味「頑張って」くれたおかげで時間を作れたわけだから。ただ東京-鹿児島往復は、時間的にも経済的にも、「ちょこっと行き来する」という距離でないことも確かではある。(「3月21日から22日②」へ続く)
