文字を持たなかった昭和 終末期49 3月24日② お通夜
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。3月23日の、明け方にはまだだいぶ間がある時間帯に訃報を受けたわたしとツレは空路鹿児島向かい、翌朝ミヨ子さんのご遺体が置かれた斎場に赴いた(「3月24日① 斎場へ」に直接続ける)
17時からの通夜式の時間が近づき、弔問の方たちが三々五々到着した。
家族葬のつもりではあっても、日頃親しく付き合い、お互いの家族の事情も知り、ミヨ子さんの近況を気にかけてくださっている相手だと、万一の時は知らせてくれと言われていたりする。そういう方々の多くは、ミヨ子さんが10年ほど前に鹿児島市の北部で長男のカズアキさん(兄)家族と同居を始めるまでをミヨ子さんが過ごした「地元」に住んでいる。
ミヨ子さんは同じ集落内で結婚したので、生まれ故郷でもある。つまりミヨ子さんは90年を超える人生のほとんどを、その集落で過ごしたのだ。
「地元」から斎場までは車で30分以上かかる距離だ。それを遠いと思うかは分かれるところだろうが、少なくとも近場ではないし、地域の成り立ちや人間関係からしても「近場」という感覚は持てない地理関係にある、とわたしは受け止めている。しかし、思いがけずたくさんの「地元」の皆さんがミヨ子さんとのお別れのために駆けつけてくださった。
その中には、わたしの気のおけない同期や、地元ではないがわたしの大学進学を強力に後押しし、両親への説得のためにわが家まで何回も足を運んでくださった高校の恩師も含まれる。ただただありがたい。
通夜式には、実家で代々菩提寺としている「地元」のお寺からではなく、いまやカズアキさんにとって地元となったこの地のお寺から、若いお坊さんが来てくださった。ご住職の息子さんらしい。いざという時はこのお寺からお坊さんに来てもらうことについても、以前カズアキさんから話がありわたしも同意してあった。実家の菩提寺ほぼ同じ宗派だというのが同意した理由だった。
通夜式自体は30分ほどで終了し、会食に移った。顔見知りどうしはもちろんだが、疎遠になっていた人どうし、さらには知らないと思っていたのに、意外なところで接点が見つかって話が盛り上がる組み合わせもあった。ミヨ子さんが結んだご縁だろう。
現役の農家の主婦だった頃のミヨ子さんは、夫の二夫さん(つぎお。父)がお客さんを連れてくると、料理やお酒(鹿児島なので100%焼酎)を出す合間は、テーブルに加わらず、台所に近い下座に控えてただ穏やかに笑い、相槌を打っていた。
お通夜の席でも、みんなでガヤガヤと語り合う長テーブルの端っこにミヨ子さんはいて、「んだ、じゃっとー?」(あら、そうなの?)と言いながら穏やかに笑っている姿が、わたしには見えた。ミヨ子はずっとそういう人だったから。
わたしは心の中で呟く。お母さん、地元の人がたくさん来てくれて良かったね。
カズアキさんの家で同居を始めてから、ミヨ子さんは地元との接点はほとんどなくなった。たまに、用事のついでにお寺でのお墓参りに行ったり、実家跡の畑に寄ったりする程度だった。それもカズアキさんかお嫁さんに連れていってもらう機会でだけ、だ。認知機能が低下し、やがて足腰も弱ってからはデイサービス以外の外出はほとんどなくなったが、わたしがたまの帰省の折りに地元へ連れていくとほんとうにうれしそうにしていた。
どんなにかふるさとへ帰りたかっただろう。
でもいまミヨ子さんは完全に解放された。いつでも心の赴くままにふるさとの山や田畑に遊びに行けるはずだ。今夜のところは通夜の席でニコニコしているだろうけど。(「3月24日③」へ続く)
※トップ写真:お通夜の席、斎場から提案で折ってもらった折り鶴と、ミヨ子さんの遺影(小型フレーム)。
