文字を持たなかった昭和 終末期50 3月24日③ 寝ずの番
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況である。3月23日の、明け方にはまだ少し間がある時間帯にミヨ子さんの訃報が届き、わたしは鹿児島へ飛んだ。通夜は翌24日の夕方に営まれた(「3月24日② 通夜」に直接続ける)。
前項で述べたとおり、ミヨ子さんの「地元」「ふるさと」から思ったよりたくさんの弔問があり、しめやかな中にも温かみのある時間が共有されたあと、皆さん三々五々お帰りになった。家族もほとんどが帰った。寝ずの番は喪主でもある長男のカズアキさん(兄)とわたし、つまり兄妹二人だ。帰る家族たちからは「母子水入らずでどうぞ」と冷やかされた。
カズアキさんの家は斎場のすぐ近くだ。ミヨ子さんはそこで10年ばかり同居していたし、亡くなる直前に入院していた病院も同じ地域にあった。カズアキさんがこの斎場を「見送り」の場に選んだのは当然と言えば当然だし、自宅から斎場の往復にも便利だ。
比較的新しいこの斎場には、ホテルの客室のような控室が設けられており、これまた立派な浴場まである。わたしはざっとお湯を浴びてから、いわゆる「水入らず」の時間を過ごした。
と言ってもカズアキさんは弔問客と長々飲んだためもう呂律が怪しく、同じ話題が繰り返される。わたしはnoteの下書きをしながら生返事を返す(この項の下書きもそうだった)。時々、祭壇にお線香をあげ、ミヨ子さんとお話しする。
カズアキさんは、わたしが帰って来たのはミヨ子さんが亡くなった翌日だったから、亡くなった夜は仮通夜扱いで、通夜から告別式が終わるまでご遺体が傷まないような処置をするために、余分に費用がかかったと言った。恩着せがましい言い方ではなく、事実を淡々と述べただけなのだろうが、そんなことをわざわざ言う必要があるのだろうか、逆に妹だからそんなことまで言うのだろうか、とわたしは少し戸惑った。
午前零時過ぎ、カズアキさんが寝た。わたしは一人で飲み直す。寝ずの番の展開を考えて、ワインを持参していたのだ。ふと気づいて、ミヨ子さんにもお酒をお供えする。つまみに持ってきたお菓子も少し添えて。
そういえば、霊安室に寝かされていたときから、ミヨ子さんの前にはお線香はあったが、なんのお供えもなかった。霊安室でわたしはお茶と持っていたお菓子をお供えしたが、通夜のときはお供えはなかった。それはこの斎場のやり方なのか、飲食物のお供えなしがいまの主流なのか、「喪主様」の意向なのかわからない。
ただ、最後の2カ月ほどを点滴だけで過ごさざるを得なかったミヨ子さんには、せめて水くらいはあげてほしかった。――もちろんそんなことは言えない。だから寝ずの番の時ぐらいはお供えする。
お線香を上げ直すたびに、棺の窓からミヨ子さんを覗き込む。しかしその顔も表情も蝋人形のようで、一連のセレモニーに欠かせないアイテムとしか思えない。だから祭壇の遺影を見やりつつ、すぐ近くにいるはずの魂に語りかける。
お母さん、もう苦しくないね。最後に何も飲み食いできなかったけど、あれは修行の時間だったよね。早く修行を始めたのだから、ふつうより早く浄土へ行けるね。まずはゆっくり休んでね。(次は(「3月25日」)
※トップ写真:ワインをお供えする前のお茶とお菓子。
