呉正男氏 4.呉さんとのご縁
私ごとになるが、この先の展開の参考のために呉さんとのご縁について触れておきたい。
2.で呉さんの経歴の最後を「戦争体験の語り部として、また日台の架け橋として、いまもご活躍。」と結んだ。その語り部として呉さんを知ったのが、呉さんとわたしの出会いだった。
わたしは台湾とはもともとご縁がなかったわけではなく、あるきっかけでできた長年来の友人もいて台湾にも何回か行っていたが、知れば知るほど台湾そのものの魅力に嵌まっていった。
台湾関係の情報を集め、いろいろな講演会やセミナーに出るうち親しくなった方から、戦時中日本兵だった台湾の方からお話を聞くので来ないか、と誘われた。そして2017年の1月、某所での小ぢんまりした講演会に、続いての懇親会にも参加した。そのときの講師が呉正男さんだった。
ご講演の内容としては、日本統治下にあった台湾から「内地」に留学した少年が、愛国の気持ちから陸軍に志願したこと、通信士としてグライダー部隊に配属され、朝鮮から特攻に出撃するはずだったが終戦、終戦後はカザフスタンに抑留され辛い労働に従事したこと等は覚えている。
ただ当時のわたしは、呉さんに対して「特異なご経験をなさった台湾の方」で、いまは日台交流にご熱心、という見方しかできていなかった。わたしの父も形の上では特攻に携わったのだが、呉さんと父との共通点はあまり意識していなかったと思う。
ちなみにその講演会の開催案内はインターネット上に残っており、講演のもようは「nippon.com」の記事になっている(前項3.で紹介した「日本人として戦った、ある台湾人の戦争」)。
講演を教えてくれた方が企画して、呉さんと数人で谷中霊園へお墓参りに行ったこともあった。誰のお墓か忘れていたが、呉さんの存在を改めて意識したこの機会にネット上の情報を漁ってみたところ、呉さんよりずっと早く台湾から日本へ出て来られた、呉さんのご親戚のお墓だったようだ。
その後わたしは台湾で仕事を得てしばらく台湾で暮らしたのだが、アクシデントで体を壊し志半ばで帰ってきた。台湾に行く前も、いる間も、帰ってからも呉さんとは連絡を取っており、会える機会があれば会ってもいた。
しかしこの数年は、呉さんと同年代でもある自分の母に会っておくことを優先してきた。体が徐々に弱るとともに認知機能も低下していく母のため、何かあればもちろん、何もなくても顔を見に帰省という生活が続いた。世間とのおつきあいは控え、母との時間、母のために使う時間――わかりやすい手紙を書くとか、ちょっとした贈り物をするとか――の確保を最優先にしていたのだった。
(その母が昨年3月に旅立ったことは「文字を持たなかった昭和 終末期57 人ひとり亡くなるということ」等で述べた。)
一方、呉さんとは年賀状のやり取りだけは続いていたが、数年前ご高齢を理由に年賀状をやめるというお知らせを受けた。わたしのほうはごく一部の方を除いて早ばやと年賀状終いをしていたから、その後呉さんとの直接の往来は途絶えてしまった、という状態にあった。
【お知らせ】呉氏に関する投稿はマガジン「呉正男氏―台湾出身の元陸軍特別幹部候補生」に集約。
