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文字を持たなかった昭和 終末期57 人ひとり亡くなるということ

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)は、入院先の病院で3月23日午前1時9分に死亡が確認された。享年96歳。翌24日に通夜、25日に告別式火葬を経て、その日のうちに初七日の法要まで終えた。

 葬儀に来られなかったミヨ子さんの末の妹・すみちゃん(叔母)は、赤ん坊を産んだばかりの頃のミヨ子さんの苦労話を電話で語った(「3月25日⑥ 末の妹」に続ける)。

 ミヨ子さんの遺骨と位牌が長男のカズアキさん(兄)宅の仏間に置かれ、一連の儀式が終わった。

 が、人が亡くなったあとの様々な手続きはまだ続く。斎場で「手続き一覧」のようなリストを渡されたカズアキさんは「いっぱいあるなー。これを全部やるのか…」と呟く。11年前に、ミヨ子さんの夫・二夫さん(つぎお。父)が亡くなった時も役所での手続きはカズアキさんがやってくれたのだが、やるべきことが次々とあり、どんな手順だったか覚えていないのだろう。

 横でお嫁さん(義姉)が、「市役所の窓口に行って、ひとつ終われば次の窓口を教えてくれるから、そんなに大変じゃないわよ」と慰める。お嫁さんは数年前に実のお母さんを亡くしているのだ。

 わたしはその会話を聞きながら、人ひとり亡くなることの大変さをしみじみと感じていた。ミヨ子さんの場合、屋敷跡や田畑などの土地はカズアキさんが相続したし、財産と言えるものは年金が振り込まれていた貯金ぐらいだ。それも、葬儀費用と先々の法要の費用で使いきってしまう程度のものだ(と、わたしは聞かされている)。

 つまりこれと言った財産はないのだが、それでも使っていたものの処分などが当面は続くだろう。処理に困るものも、もしかすると出てくるかもしれない。やはり、人が亡くなるということは大変だと思う。

 そしてわたしは、自分がこれまでと全く違う世界へ進んだことを、改めて認識する。それは「お母さん」がいない世界だ。

 ミヨ子さんのことを案じること、会ってあるいは電話で話すこと、何かしてあげることは当然であり、楽しみでありときに悩みにもなった。とくに大人になり「してあげられる」立場になってからは、折々の贈り物やふと思いついての小さなプレゼントとそれに添える手紙を書くことを、たまには面倒に感じながらも、基本的には楽しみに続けてきたのだと、改めて思う。

 これまでいったい何百回、何千回ミヨ子さんのことを考えただろう。もう反応を考え、楽しみにする機会は永遠になくなった。

 カズアキさんが市役所で所定の手続きをすべて終えたら、ミヨ子さんは日本国のシステムの中において社会を共にする人ではなくなる。戸籍を抹消された元国民としてデータに残るだけだ。

 でもミヨ子さんが消えたわけではない。ミヨ子さんは自分の胸の中にしっかりいる。わたしの半分はミヨ子さんだったのだし、この命はミヨ子さんにもらったものだ。(次は「機内にて」)

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