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文字を持たなかった昭和 終末期55 3月25日⑤ 還骨、初七日

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)は、入院先の病院で3月23日午前1時9分に死亡が確認された。翌24日に通夜、25日の告別式を営んだ。ミヨ子さんを納めた棺は斎場から火葬場に向かい、ごく内輪の親族だけで収骨した(「3月25日④ 火葬場にて」に続ける)。

 ミヨ子さんは骨壺に収まって斎場へ帰ってきた。11時に出棺、戻ってきて1時から還骨法要、続いて初七日の法要という段取りだったが、火葬場での所要時間が想定より長めだったのか時計は1時を少し過ぎ、お坊さんは先に到着していた。身重のため火葬場までは同行しなかった孫のひとり(姪)も待っていた。

 祭壇の生花はすべて片づけられ、遺影はいくばくかの造花に囲まれている。その前に骨壺が置かれ、すぐに法要が始まった。「還骨法要」という言い方には馴染みがなかったが、たしかにお骨が帰ったあとは法要を行うものだ。

 ひと通りの読経が終わると、初七日の法要が続いた。ばらばらの場所に住む親族が一同に会する機会を作るのが難しい現代、初七日法要まで一気に終えるのがいまや一般的だろう。状況によっては納骨まで終えるケースもあるだろうが、ミヨ子さんの、というか実家の菩提寺は別の町にあるので、納骨は四十九日を待つことになるだろう。

 相変わらずお経の意味はよくわからないが、お経の間にミヨ子さんの名前が入ったり、口語の説法があったりしたときだけ、言わんとすることを想像する。そして「合掌、礼拝」の指示(?)に合わせて手を合わせる。ときどき遺影を見遣っては、自分の母親はもうこの世にいないという現実を噛みしめる。

 斎場での儀式がすべて終了し、遺影や遺骨、自分たちの荷物などを車に積み込んだ。喪主を務めた長男のカズアキさん(兄)とお嫁さん(義姉)は、斎場のスタッフと精算のための打ち合わせをしている。

 わたしは斎場の玄関に出てあたりの景色を眺めた。見知らぬ町。カズアキさん家族と同居したミヨ子さんはここで晩年を送ったが、家の中かデイサービス先ぐらいしか知らなかったはずだ。

 斎場の入り口では、通夜の前に用意されたミヨ子さんの生前の写真がスライドショーとしてまだ流れていた。ほぼすべてがこの町に来てからのものだ。わたしの帰省時にいっしょに過ごしたときの写真をあらかじめ選んであったが、デイサービス先のものもある。全部「おばあさん」になってからの写真。

「お母さんには、ピチピチの娘時代も、若妻の頃も、農家の現役主婦で元気に働き、家族を献身的に支えた時代もあったのに。それらはすべてなかったみたいに、おばあさんになってからの姿だけ」
――納得がいかなかったが、どうしようもない。わたしは喪主でもないし、いっしょに住んでもいなかった。

 精算書を渡されたカズアキさん夫婦と斎場を出て、カズアキさん宅へ行ってみんなでお茶を飲んだ。晩ご飯には、仕出し屋さんに注文してあった精進落としのためのお弁当を食べ、これで「ひと通り」の儀式は終わった。

 費用面で言えば、家族葬という形式ながらなんだかんだで90万円ほどかかったらしい。「お寺へのお布施は4回分まとめてでいい、ということで10万円包んだ、こちらの地元のお寺だからお車代もかからなかった」とカズアキさんはちょっと自慢気だ。4回というのは通夜式、告別式、還骨法要、初七日だ。一切の費用は、ミヨ子さんの貯金から賄えたらしい。この先々の年忌法要も貯金の残りでやっていけそうだ、とお嫁さんが言った。

 自分の始末は自分でちゃんと手当てしていったミヨ子さんは、骨壺に収まってお仏壇の前に座っている。斎場からもらってきた何束もの生花はお嫁さんが生け直してくれて、その周りを飾っていた。
「お義母さんは花が好きだったからねぇ」
お嫁さんがぽつりと呟く。

 亡くなる直前の2カ月近く、飲まず食わずの修行をしたミヨ子さんは、もうあちらに着いてゆっくりしているはずだ、とわたしは考えているが、花を飾ることで送り出した側のほうが安らぐのかもしれない、とも思う。(「3月25日⑥」へ続く)

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