文字を持たなかった昭和 終末期54 3月25日④ 火葬後

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)は、入院先の病院で3月23日午前1時9分に死亡が確認された。翌24日が通夜、25日の告別式を終えて、ミヨ子さんを納めた棺は斎場から火葬場に向かい、炉に入っていった(「3月25日③ 出棺」に続ける)。

 火葬場の待合ホールでお弁当の昼食を取り、お茶を飲んでいたわたしたちの上にアナウンスが流れた。「◯◯様、1番の前にお集まりください」。炉の鍵代わりの番号札を持った喪主で長男のカズアキさん(兄)を先頭に、到着時位牌などを持っていた親族は炉の前へ戻り、ほかの親族は直接「収骨室」へと進んだ。

 炉の扉が開かれ、棺を置いてあった台車が引き出される。思ったより熱くない。台の上には金属性の蓋が3つ並んでいた。ブッフェ(バイキング)の温かい料理に被せる蓋のようにも見える。しかし下にあるのは肉が「完全燃焼」したあとの人骨だ。

 係員が押す台車と4人の親族は収骨室へ移動し、先に入っていた親族と合流した。そこにいる誰もが、お骨の状態をしっかり確かめたいと思っていたはずだ。

 台車に被せられた蓋が順番に外される。現れたミヨ子さんのお骨は、いかにも小柄な女性のそれらしく、小さめの平たい山を造っている。頭から足先まで順番に並んでいるのでだいたいの部位はわかるが、ほんの2時間前までいちおうは人間の形をしていた物体だと思えない。頭蓋骨は壊れ、肋骨から腰の骨はほぼ同じ場所にある。ごく一部に、緑色の絵具を筆で刷いたように見える個所がある以外、真っ白だ。

 お母さんの骨、バラバラだ……。わたしがまず思ったのはそれだった。

 係員が骨の拾い方や渡し方、骨壺への納め方を説明し、収骨が始まった。喪主に近い3名――カズアキさんとわたし、それに長年ミヨ子さんのお世話をしてくれたお嫁さん(義姉)が、足元から始まった最初のいくつかのお骨を、まさに箸渡しで運び、喪主が骨箱に納めた。青竹を割った箸は長くて重く、持ちづらい。箸と箸で骨を渡しながら落としそうになる。

 続いて、先ほど使った3膳の箸を全員が使い回す形で、係員が指示する部位のお骨を拾いあげては骨箱に納める、という作業が延々と繰り返された。違う部位の骨を拾う度に、「踝です」「膝です」「腰の骨です」など、係員が説明していく。

 腰らしき骨の前に、わたしはずいぶん太い骨を拾った。「大腿骨」という説明。思わず「重いですね」と口にすると係員から「はい、大腿骨は重いんです」と返された。ミヨ子さんの体を支え続けた太腿の骨だ。箸は徐々に上へ行き「第二頸椎、いわゆる喉仏です」と言われ、女性に喉仏はあったっけ、と考える。

 やがて最初の3名による最後の収骨に移った。喉から上のお骨を、係員の指示に従って拾い上げ骨壺に入れる。いちばん最後に頭頂部のお骨をカズアキさんが収め、骨壺の蓋が被せられて収骨は終わった。蓋は密閉式などではなく、揃いの陶器の本体の上に乗せただけだ。「空気が入るなぁ。骨が冷める間に結露しないだろうか」。わたしはそんなことを考えた。

 帰りは2台の自家用車に分乗した。わたしとツレはカズアキさんの車に乗せてもらう。位牌や遺影、そして中身が入った骨壺もこっちの車だ。わたしは骨壺を納めた箱を抱えてみた。

 11年前にミヨ子さんの夫・二夫さん(つぎお。父)が亡くなったときは、火葬場からの帰りのバス――火葬場に行った人も多かったので中型バスを出してくれた――の前のほうの席で抱えた骨壺は、温かいというより熱かった。しかしミヨ子さんの骨壺は陶器の温度のまま静かに抱かれていた。(「3月25日⑤」へ続く)

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