文字を持たなかった昭和 終末期53 3月25日③ 出棺
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)は、入院先の病院で3月23日午前1時9分に死亡が確認された。翌24日に通夜が、25日に告別式が行われ、ミヨ子さんを納めた棺に蓋が置かれた(「3月25日② 最後のお別れ」に続ける)。
ミヨ子さんの棺を載せた霊柩車は長いクラクションをひとつ鳴らして斎場を出た。長男のカズアキさん(兄)が位牌を、わたしが遺影を、まだ空の骨壺はわたしのツレが抱える。ほかの家族は自家用車で続くのだが、花はお嫁さん(義姉)が持った。
家名の札が立てられたこのアレンジメントフラワーはお通夜の時から斎場の入口にあった。置かれた場所は動線と逆方向で、空き時間にこの花を見つけた時は「誰も見ないだろうに」と思ったのだが、重要な役割があることをのちに火葬場で知ることになる。
火葬場は鹿児島市営の北部斎場(北部があるということは南部もある)。市民の利用なら、料金はなんと(!)9,000円+税らしい。火葬場が少ない、高い、遅いの三拍子揃った首都圏からすると羨ましい限りだ、と言っては不謹慎だろうか。
霊柩車は30分近く走って火葬場に着いた。小高い丘を拓いて造ったらしく、駐車場が広いのはもちろんのこと、建物も広くゆったりしており中もきれいで、待っている間も落ち着いて過ごせそうだ。
棺は早速炉へと向かう。先着していた斎場のスタッフから案内され、位牌を先頭に家族は予約ずみの炉の前に進んだ。炉の扉の横に置かれた台に、位牌と遺影、骨壺、そして花を置く。花までが、火葬を見守る「セット」なのだ。
棺を前に、火葬場の係員から説明を受ける。終了まで1時間20〜30分。意外に長い。思わず、ミヨ子さんはもうあんなに小さくなっていたのだから、焼きすぎず適当に切り上げてほしい、と考える。ミヨ子さんの棺を載せた台車が炉の中にするすると入っていった。
ミヨ子さんの心(魂)はとうに体から抜け去っているとわたしは感じているので、まだ「生(なま)」であろう体を焼いてしまうことも儀式というかプロセスのひとつとして理解すれば抵抗はない。しかし、法律が定める800℃以上という高温で「短時間で」焼き上げてしまうことには、引っ掛かりがある。できることなら、土葬で弔ったミヨ子さんの舅・吉太郎さん(祖父)のようにふるさとの土に還してあげたかった。
炉の扉が閉められ、斎場のスタッフに案内でわたしたちは待合ホールへ移った。わたしたち――カズアキさん夫婦とその子どもたち(甥と姪)、ツレとわたし――はここで昼食のお弁当をいただいた。自分の親の体が高温で焼かれている間にモノを食べている、という事実はいまひとつ受け入れがたいが、一連の儀式はそういう流れなのでしかたがない。
ふいにカズアキさんが「母ちゃんの死因は言ったっけ?」と訊いた。そう言えば、電話で訃報を受けたときは死亡(確認)時刻を聞いただけだった。斎場では、自身がわかっている事実や情報を前提にカズアキさんがどんどん進めていったから、死亡原因に遡って話をする機会はなかった。長い入院生活、95歳という年齢から、当然老衰だろうと思っていたせいもある。
「いや、聞いてないよ」と答えると「腎不全という診断だった」。お嫁さん(義姉)が
「(昨年夏施設に入所した直後)最初に具合が悪くなったときも腎不全だったものね。今度(2回目)緊急搬送されたときも、市立病院では『本来なら人口透析が必要なレベルだけど、年齢的に無理でしょう』と言われたんだものね」
と補足し、わたしは「あぁ、そういう話もあった」と思い出した。
そう。施設に戻ったミヨ子さんは食欲もあり元気そうに見え、その状態がこの先も続くような気がしていたが、腎機能は徐々に低下していたのだろう。その意味では、あるタイミングで体調を崩して入院生活に入り、そのまま3月23日を迎えたのは天命だったのかもしれない。(「3月25日④」へ続く)
