文字を持たなかった昭和 終末期52 3月25日② 最後のお別れ
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)は、入院先の病院で3月23日午前1時9分に死亡が確認された。翌24日に通夜が営まれ、25日の告別式はほぼ親族だけで執り行われた。(「3月25日① 告別式」に続ける)。
告別式が終わり、いよいよ「最後のお別れ」のときが訪れた。
「火葬場では棺を開けることはできないので、お顔を見られるのはこれが最後です。どうぞ存分にお気持ちを伝えて差し上げてください」
斎場のスタッフが気分を盛り上げる。わたしの中では棺の中のミヨ子さんはもう脱け殻だが、もちろんそんなことは言えない。
棺の蓋が外された。祭壇を埋めていた生花がスタッフの手から数本ずつ渡され、顔周りからだんだん下の方へと置いていく。参列者が少ないので何回も花を受け取っては「旅立ち」を飾る作業を続ける。祭壇にはミヨ子さんが好きだった紫系統の色の花を、晩年の10年ほどを同居していたお嫁さん(義姉)が選んでくれてあった。どの花も、ミヨ子さんはきっと気に入るだろう。
斎場からの提案で、通夜式の合間に弔問客が折ってくれた折り鶴も入れた。わたしの「地元」の友人は、千代紙4枚を使って百合を折ってくれていた。ミヨ子さんも知っている彼女の呼び名を使って「Aちゃんが折ってくれた百合だよ」と教えてあげた。
最後に、寝ずの番のあとの朝食に出された炊きたてのご飯でわたしが握り、斎場スタッフが半紙で巻いくれたおにぎりを入れる。「お顔の近くに」というアドバイスで、顔近くの花の隙間に置いた。
「あっちさい行っ時、たもいやんせ」(あちらへ行くときに、食べてちょうだい)
と囁く。
旅立つミヨ子さんに渡したものは他にもあった。年明けに出したが、すでに体調が悪く読んでもらえなかったハガキ。迎えられるかわからない状況下で書き、出せずじまいだったバースデーカード〈313〉。甘いものが好きだったミヨ子さんのために、羽田から飛行機に乗る前に買ったきんつば。2月に帰ったとき買って残してあったチョコレート2粒も、カードの封筒にそっと入れた。
これらは、棺に入れる花をスタッフが用意するわずかな時間を見計らって、ミヨ子さんのベストの内側に置いてあげた。
「手紙は向こうで読んでね」と声をかけながら。
わたしはもちろん常識的な大人(のつもり)だから、棺に何を入れてはいけないか、特にビニールやプラスチック類はどうか気になっていたので、事前に斎場のスタッフに確認した。結論的には、お菓子の個包装程度のプラスチックで、たくさんの量を入れるのでなければ大丈夫、ということだった。
もっとも、火葬場によって許容度は違うだろう。昨今の地球環境重視の流れからいえば、規制は厳しくなる方向かもしれない。
そうやって、わたしが「これは持たせてあげたい」と思っていたものは持たせてあげられた。思えばスタッフさんたちのサポートなしでは成し得なかった。ただ一度の機会、それも時間に追われる中で、持てるノウハウをフルに使って実現させてくれたことに感謝したい。
ふと顔を上げると、参列した孫たち――もう30~40代だ――が一様に目を真っ赤にしている。そうだね、君たちにちっては、やさしくてちょっと面白い、かわいいばあちゃんだったはずだよね。
それぞれにとっての、それぞれのイメージのミヨ子さん。もう会えない。
こうして、花で彩られたミヨ子さんの棺に蓋が置かれた。もう50年以上前、ミヨ子さんの舅・吉太郎さん(祖父)を見送った時は棺の蓋に釘を打ち、地域の青年たちが棺を墓地まで担いで土葬した。ミヨ子さんの棺には釘を打たないのはもちろん、釘を打ち込むポーズすらなかった〈313〉。(「3月25日③」へ続く)
〈313〉ミヨ子さんが病院で迎えた3月10日の誕生日を遠くから祝ったときの様子は「終末期22 病床での誕生日」、吉太郎さんの埋葬のもようは「文字を持たなかった明治―吉太郎112 埋葬」で述べた。
