文字を持たなかった昭和 終末期56 3月25日⑥ 末の妹
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)は、入院先の病院で3月23日午前1時9分に死亡が確認された。翌24日に通夜、25日に告別式。火葬場ではごく内輪の親族だけで収骨し、その日のうちに初七日の法要まで終えた(「3月25日⑤ 還骨、初七日」に続ける)。
斎場から長男のカズアキさん(兄)宅へ戻ったときのこと。ミヨ子さんの末の妹で屋久島在住のすみちゃんに話が及んだ。すみちゃんはミヨ子さんより20歳年下だ。
2月にはミヨ子さんのお見舞いに突然やってきたこともあり〈314〉、カズアキさんはミヨ子さんの訃報を伝えた際「島からわざわざ(葬儀に)来なくてもいいから」と言ったらしい。わたしは、ミヨ子さんの5人きょうだいの中で最後に残ったふたりの姉妹にお別れをさせてあげてもいいのでは、と思っていたが、「喪主」様の意向には逆らえない。
「すみちゃんが、息子(わたしたちにとって従弟)から弔電が行くかも、と言ってたが、結局来なかったな」
とカズアキさんが話しているとき郵便の配達があり、現金書留が届いた。すみちゃんが、二人の子供たちの分も含めてお香典を送ってくれたのだった。
早速カズアキさんがすみちゃんに電話でお礼を言い「いま二三四もいるから代わるね」とスマホをわたしに渡してきた。
わたしは、ずっと前からミヨ子さんの状態をすみちゃんにスマホのメッセージで伝えてきた。訃報を受けた時もすぐに連絡したし、斎場や火葬場でのあれこれや写真、斎場の入口で流れていたスライドショーの一枚一枚までも届けてあった。一方で、そんなことをしているとカズアキさんには一切言っていなかった。
素知らぬ顔でスマホを受け取り「寂しくなるね。でもお母さんはきっと天国へ行けるよね」と言うと、すみちゃんは唐突に語り始めた。
――そりゃあんなに苦労した母ちゃんだもの、天国へ行けるわよ。お嫁に行って本当に苦労したからね。私が学校から帰ると帯を持って待ち構えていてね。赤ん坊を背負う帯。カズアキが生まれて間もない頃でね。赤ん坊を背負ったままだと働きにくいでしょう。だから私が子守り役だったのよ。カズアキと私は10歳違うから、小学校4年生ぐらいだったかねぇ。
私にカズアキを背負わすと、母ちゃんは畑や田んぼに行くんだよ。「いつまで背負えばいいの?」って聞くと「泣くまで」って。
私はカズアキを背負ったまま友達に遊びに行くんだけど、重いからね。悪いこととは知りつつ、そのうち足の裏をくすぐったりして、わざと泣かせてね。畑で母ちゃんを探して「泣いちゃった」って言うと「まだ(お腹が空いたり、オシメが濡れたりして)泣く時分じゃないんだけどねぇ」って引き取ってくれたけど、ほんとはわざと泣かしたってわかってたはずだよ。
わたしが知らないエピソードだ。もっとも、カズアキさんより二つ下のわたしが、その赤ん坊の頃の話を知らなかったとしても当然だ。わたしの知るすみちゃん自体、中学生ぐらいの「お姉さん」だった。すみちゃんはさらに続けた。
――私にとって(長女で、20歳年上のミヨ子さんは)お母さんみたいなもんだったからね。だから「母ちゃん」って呼んでるんだけど。離れて住んでいて滅多に会えなくても、いてくれるだけで心強かったのに、もういないんだと思うと、なんとも言えない気持ち。
そのことを子供たちに話したら「私たちがいるじゃない」って言ってくれるんだけど、子供の存在とはまったく違うものだからね。
わたしが「すみちゃんでもそう思うんだね」と返すと、すみちゃんは言葉を継いだ。
――(私は)末っ子だからね。上に誰かがいるのを当たり前に思って生きてきたから、上に誰もいない状態は心細いんだよ。
話が思ったより長くなり、カズアキさんがイライラし始めたのを感じているわたしは、「また屋久島に行くから、その時ゆっくり話そうね」と切り上げた。実際はスマホでちょくちょくやり取りできるのだが。
ミヨ子さんが亡くなって、わたしが感じている喪失感とはまた別の喪失感を、すみちゃんは深く感じている。それぞれの喪失感は誰にも埋められない。
スマホをカズアキさんに返すと、露骨に「話が長すぎる」という表情をされたが、すみちゃんに対しては「島から墓参りにでも帰るときは連絡して。港まで迎えに行くから」と、あくまで礼儀正しいのだった。(「人ひとり亡くなるということ」へ続く)
〈314〉帰省ついでに屋久島を訪れたときの関連ですみちゃん自身について述べたのは「つぶやき 島のひとり暮らし」。すみちゃんが突然「上陸」したときのことは「終末期18 末妹すみちゃん上陸」で述べた。
