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「自立した女性がモテる」は、誰かが作り出した都合の良さである


A「好きなタイプはなんですか?」
Q「自分の機嫌を自分で取れる人がいいです。」

A「理想の結婚は?」
Q「お互いに自立していて、1人でも楽しいけど、2人だともっと楽しいと思える関係性です。お互いの時間を尊重したいです。」


私は大嘘つきだ。めちゃくちゃお姫様扱いされたいし、自分の激しい感情の波を全て受け止めてくれる母親のような包容力を持つ男性を求めている。

私のことを常に可愛いと言ってほしい。
何にもない日に花束をプレゼントしてほしい。
私のために休日はパンケーキを焼いてほしい。
晴れの日はピクニックをしながらお絵描きがしたい。
でも私が放っておいてほしい時は放っておいてほしい。
私だけをみてほしい。白馬に乗った王子様に救ってほしい。
ちょっと、わがままなドキンちゃん状態だ。

「あなたがいないと生きていけないの」と懇願した時に、「俺がずっと精神的に支えてあげる」とそばにいてくれる人を求めていた。でもそんな欲求を見せたら、男性は逃げると思い込んでいた。

世の中では「しっかりした大人の女性」がモテるって言われていた。ファッション雑誌を開くと、モテそうなモデルや芸能人が恋愛相談コーナーで「大事なのは、自立すること」と述べている。だから私も、大人の成熟したような女性に憧れて、20代前半の時は自立したフリをしていた。

「相手には相手の人生があるでしょ」と言いつつ、全てを共有したい。

「大丈夫、気にしてないよ」「忙しいのはお互いさまだよね」と言いながら、LINEの既読がついたかを何度も確認して、深夜にひとりで泣いて、心の中で「なんで分かってくれないの」と責めていた。

聞き分けがいい女性になりたいけど、相手の何気ない一言を「嫌われた」「見捨てられる」とネガティブに深読みしてしまう。

どんなに頑張って「いい子」を演じても、いつか必ず本当の自分が出てしまう。世間は、「感情的に安定しており、ヒステリックにならず冷静に問題を解決できる女性」を求めているが、感情の振れ幅が極端に大きい私には『大人の女性』に擬態することができなかった。

まるで『アンパンマン』に出てくるドキンちゃんが、しょくぱんまん様に夢中になるのと同じだった。

ある時、私は決めた。「もう演技をやめよう」って。

自分のこうした「誰かに完全に理解してもらいたい」「救ってもらいたい」という欲求を素直に認めたことで、私がどんなにワガママを言っても「君のそういうところも好きだよ」って言ってくれる献身的なホラーマンを見つけることができた。


なぜ世間は「自立した関係」を理想化するのか?


現代社会、特に都市部では「重い女は嫌われる」「自立してないとダサい」「メンヘラは地雷」というメッセージが死ぬほど擦られている。

その結果、理想的な女性像として「精神的に完全に自立しており、パートナーの自由を尊重しつつ、知的でスマートな関係を築ける女性」が規範化されてる。

その結果、多くの女性が10代後半から20代前半で以下のような学習をする。

本音の表出(寂しい・構って・助けて)→社会的拒絶の恐怖→本音の抑圧

「自分の機嫌は自分で取ります」「一人でも平気です」という成熟ごっこに入る。しかし、ここで重要なのは、「甘えたい・特別扱いされたい・一人にされる」と不安という根本的な欲求が消失したわけではなく、単に表面下に抑圧されただけであるという点だ。

しかし、世の中をよく見渡してみると、実に興味深い現象が起きている。大学のサークルで一番の問題児だったあの子、男性が語る「伝説のメンヘラ元カノ」、周囲から「ヤバい」と噂されていた女性たちが、なぜか驚くほどパートナーに深く愛されている。

「あんなに扱いにくいのに、どうして?」という疑問を抱くと思うが、答えはシンプルで、感情的透明性があるからだ。

彼女たちは自分の感情を隠さない。「寂しい」「会いたい」「愛してほしい」という欲求を、社会的に適切とされる範囲を超えてでも率直に表現する。

そして「私はこういう愛情表現がほしい」「こういう関係性を求めている」という具体的な要求を明確に提示するので、それを与えたい男性とマッチングしやすいのと、「重い」と感じる人は早々に去るので、相性の良い人だけが残る。

これは一見ワガママに見えるが、男性の立場から見ると、実は「取扱説明書」を最初から開示してくれているようなものだ。「何をすれば正解か」が明確でボーナスステージのような状況を提供している。そして、表面を取り繕わず、真の感情状態を共有することで、相手に「この人は僕に本当の自分を見せてくれている」という安心感を与える。 

悔しいことに、世間が「ヤバい」と呼ぶ女性の特性の中には、実は恋愛において、感情的な正直さ、ニーズの明確さ、脆弱性の開示は、深い絆を築くための必須要素だと学べる。

彼女たちは時間とエネルギーを不適合な関係に浪費することなく、最短距離で「自分を深く理解し、受け入れてくれるパートナー」に到達する。

逆に、社会的に理想的とされる「成熟した大人」を演じる女性は、矛盾した二重のメッセージを発してしまう。

表面:「自立してます。一人でも大丈夫です」
内心:「本当は深く愛されたい。救ってほしい」

この矛盾は相手を混乱させる。「私は一人でも平気」って顔をしておきながら、心の中で「なんでLINEくれないの?」って怒っている女性は、男性からすると「正解がわからない超難問テスト」みたいで疲れてしまう。共通テストで満点取るより難しい。

表面的には「問題ない」と言いながら、実際には不満が蓄積されているため、いつ爆発するか予測できないし、相手が本当の感情を開示しないため、「何を考えているか分からない」という疎外感を感じる。

結果として、本当は深い絆を求めているのに、それを隠すことで逆に深い関係が築けないという悪循環に陥る。


社会は「便利な人間」を求めているだけ


現代社会で「自立した関係」が理想化される背景には、複数の重要な社会変化が絡み合っている。 都市化により地域共同体が解体され、人々は「個」として生きることを求められるようになった。また、フェミニズムの影響で女性の経済的自立が進み、心理学の発展によって「共依存」という考え方も広まった。

しかし、ここで重要な疑問が浮かぶ。 なぜこれらの本来健全な変化が、「相手に感情的ニーズを表現すること自体が未熟」という極端な個人主義にまで歪められてしまったのか?

その理由の一つとして、新自由主義の影響がある。企業や労働市場は、こうした社会の変化の中から、自分たちに都合の良い「個人で完結する姿勢」だけを強調し、それを強めていったからだ。

国が「面倒見る親」だとすると、
昔 →「困ったら助けるよ」
新自由主義 →「基本は自分で頑張ってね。競争してね」

というスタンスに変わり、感情的な依存や助け合いが「弱さ」と見なされやすくなった。

企業や社会システムにとって最も都合の良い理想的な労働者は「どこでも働けて、いつでも働けて、感情に振り回されない人」だ。

転勤や異動があっても、家族や恋人との関係に大きく左右されずに対応できたり、残業や休日出勤などの要請に対して、私生活よりも仕事を優先して対応したり、配置転換や人間関係の変化があっても、大きく動揺せず、仕事のパフォーマンスを維持できることだ。

労働者が、「あなたがいないと生きていけないタイプの恋人」を持つことにより、転勤を断る可能性が高くなったり、残業や出張を嫌がったりと、仕事よりも関係性を優先し、企業にとっては「使いにくい労働者」になってしまう。

一方で、本来のフェミニズムは「性別による上下関係や役割の押し付けをなくして、対等に生きられる社会を目指す」考え方だった。しかしこれが一部で歪められ、「相手に感情的な支えを求めること自体が未熟である」という極端な解釈として広まった。こうした価値観は、結果的に企業にとって都合のよい方向に働いているとも考えられる。

つまり、「自立した恋愛」が強く推奨される背景には、個人の幸福だけでなく、企業が人材を効率よく扱いやすくするという側面もあるのではないか、という見方ができる。

【現代男性の変化】

昔と今では、男性がパートナーに求めるニーズが根本的に変化している。

高度経済成長期までは、男性が外で働き、女性が家庭を支えるという役割分担があった。この時代、男性は仕事で疲れて帰ってきても、パートナーからケアを受けることができ、また女性の依存を受け止める余裕も持っていた。

しかし現在は、共働きの一般化や雇用の不安定化、成果主義によるプレッシャー、生活コストの上昇などにより、男性自身が精神的な余裕を失っている。その結果、パートナーを支える余力も小さくなっている。

本来、親密な関係とは互いにケアし合うものだが、現代では「自分のケアは自分で行うべき」という前提が強まり、関係から相互ケアの機能が薄れつつある。「精神的に自立した女性」という理想の裏には、「自分の負担にならないでほしい」という無意識の期待も含まれている。

自立した女性は、男性にとって メンテナンスコストがかからない、燃費の良いパートナーとなる。

現代社会は「予測不可能性」を極端に嫌う。株価変動、自然災害、健康問題など、あらゆるものを「管理可能なリスク」として計算し、コントロールしようとする。この思考は恋愛関係にも侵食している。

  • 感情の爆発による精神的コスト

  • 別れ話で揉める時間的・エネルギー的コスト

  • ストーカー化による身体的・法的コスト

これらはすべて「面倒で予測不可能なリスク」として計算され、できるだけ避けるべきものとされる。その結果、「感情的に安定していて、別れる時もスムーズで、依存してこない」関係が理想化される。

しかし、ここで見落とされがちなのは、男性もまた別の形で強烈な社会的圧力に晒されていることだ。現代の男性は、矛盾した二重の要求に引き裂かれている。

伝統的な男性性への要求:「男なら弱音を吐くな」「経済的に家族を支えろ」「頼られる存在であれ」「問題は自分で解決しろ」
現代的な要求:「女性の自立を尊重しろ」「感情的なケアも提供しろ」「家事育児も平等に分担しろ」「コミュニケーション能力を高めろ」

つまり、「伝統的な強い男」でありながら「現代的な理解ある男」でもあれ、という実質的に不可能な要求だ。

社会は「男性には感情的な脆弱性がない」とみなす。しかし、男性の中には疲れ切った時に無条件で甘えたり、弱さを見せても見捨てられない安心感を求めたり、ただそのままの自分を愛してほしい人もいる。

だが、これらの欲求を表現した瞬間 「男のくせに情けない」「頼りない」「器が小さい」 と評価されるリスクがあると懸念し、結果として、多くの男性は自分の感情的ニーズを深く押し殺し、「強くて余裕のある男性」を演じ続けることを強いられる。これは女性が「自立した大人の女性」を演じる構造とよく似ている。

つまり、「重い女は嫌だ」という男性の多くは、実は自分自身の感情的ニーズを抑圧しており、「最初から期待されない関係」を選ぶことで、「期待に応えられない自分」と向き合わずに済むのだ。

つまり現代の恋愛の問題は、「男 vs 女」の対立ではなく、
社会の中で双方がそれぞれ異なる形で圧力を受けている構造的な問題である。

女性:「自立した大人の女性」という鎧を着て、甘えたい欲求を隠す
男性:「強くて頼られる男性」という鎧を着て、甘えたい欲求を隠す

お互いが「社会が求める理想像」を演じながら、関係を築こうとしているため、本当の温もりが伝わらない。これが現代恋愛の根本的な悲劇だ。


個の確立という新しい価値観

現代の教育やメディアは、「個の確立」を強く推奨している。「自分らしく生きる」「他人に依存しない」「自己実現」といった言葉が、当たり前のように語られている。

その結果、「誰かに頼ること」や「あなたなしでは生きられない」という感情は、未熟で劣ったもののように扱われやすくなった。社会には、「依存=悪」「自立=善」という単純な価値観が広がっている。

しかし、この考え方は人類の歴史から見ると非常に新しい。

人類は約20万年という長い歴史の中で、常に深い相互依存の中で生き延びてきた。「自立した個人」という概念は、実はここ100年程度の極めて新しい、そして生物学的には不自然な概念だと推測する。

18世紀以前の狩猟採集社会〜農耕社会の時代では、一人では食料を確保できないし、外敵から身を守れず、子育てもできなかった。つまり本来の人間にとって、「相互依存」は特別なものではなく、前提そのものだった。「あなたがいないと生きていけない」という感覚は、ロマンチックな比喩ではなく、文字通りの生存現実だった。ただし、この時期の「依存」は現代のような「二人だけの閉じた世界」ではなく、共同体全体での相互支援システムだった。

【恋愛の誕生】

18世紀以降、産業化と都市化によって、人々は従来の共同体から相対的に切り離され、「個人」として生きる傾向が強まった。同時に、結婚においても家や経済ではなく、個人の感情(恋愛)を重視する価値観が徐々に広がっていった。

例えば、若きウェルテルの悩み、ロミオとジュリエット、嵐が丘 などの名文学では、「あなたなしでは生きられない」という激しい愛が、最も純粋で美しいものとして描かれている。

1980年代、日本でもバブル時代は、アッシーくん、メッシーくんという女性にタクシー代と飯代を出す人たちがいた。女性の「わがまま」が魅力の象徴で、男性がそれに尽くすことが愛の証とされていた。また、男性は終身雇用で経済的に安定しており、女性に献身する余裕があった。

しかし現代では、終身雇用の崩壊や労働環境の変化によって、状況は大きく変わった。転勤や長時間労働に対応できる「身軽な個人」が求められるようになり、それに合った「自立した関係」が理想とされるようになった。

こうして見ると、推測だが、「自立した恋愛」という理想は、普遍的な真理というよりも、特定の時代や社会システムの中で生まれた価値観もあるのではないかと考えられる。

人間は本来、強い相互依存の中で生きる「社会的な生き物」である。
だからこそ、「一人で完結すること」を理想とする現在の価値観には、どこか無理がある人もいる。

つまり、自立は誰にとって「良い」のかを問い直すかが大事なのだ。


誰のための価値観なのか

「自立した関係」という考え方は、個人の自由を広げた一方で、企業や経済システムにとっても都合よく働く側面がある。場所や時間に縛られず、感情的にも安定している人は、組織にとって扱いやすいからだ。

その結果、社会の中で「自立=良い」「依存=未熟」という価値観が強まり、本来人間に備わっている「誰かに頼りたい」「深く結びつきたい」という自然な欲求が、軽視されやすくなっている。

ただし、社会が推奨する価値観と、個人の幸福が必ずしも一致するとは限らない。この「社会の都合 vs 個人の幸福」という対立構造は、恋愛だけでなく、人生のあらゆる領域に見られる

仕事においては、本当は好きなことをしたいのに、企業の人材確保、税収の安定、親の世間体のために「安定した職業」が勧められる

ライフスタイルでは、 自由に生きたいのに、経済システムの維持や少子化対策で「適齢期に結婚し、子供を産むべき」が当然のように期待される

人間関係の領域では、本音を言いたいし自分らしくいたいのに、周囲の快適さや組織の円滑な運営のために「良い人でいるべき、空気を読むべき」と求められる

つまり、真の自立とは、皮肉なことに実は「社会が押し付ける『自立』という価値観から自由になること」なのである。

  • 社会の期待に従うことではなく、自分の欲求に正直になること

  • 一人で生きることではなく、依存したいときに依存できる自由を持つこと

  • 強く見せることではなく、弱さを見せられる勇気を持つこと

  • 「正しい」選択をすることではなく、自分が幸せになる選択をすること

そうした柔軟さこそが、自立の一つの形だと考えられる。

社会システムの都合のために、あなたの幸福を犠牲にする必要はない。あなたの人生は、企業のためでも、経済システムのためでも、他人の期待のためでもなく、あなた自身のためにある。

もちろんこれは、社会のシステム関係なく「自立した関係を持ちたい」という人の価値観を否定しているわけではない。それだけが正しいとされ、他のあり方が否定されてしまう社会的圧力が問題なのだ。

本来、フェミニズムも心理学も、「人が自分の望む生き方を選べるようにする」ためのものだった。しかし現実には、その一部の価値観だけが強調され、「自立していなければならない」という新たな圧力として働く場面も生まれている。つまり、「どちらを選んでもいい自由」があるべきだ。


恋愛における「愛の言語」の違い

現代の恋愛で最も深刻な問題の一つは、「愛されていない」と感じる苦しみだ。しかし、その苦しみの正体は相手の愛が不足しているからではなく、お互いが全く異なる「愛の言語」を話していることに起因している場合が多い。

『言葉や時間を通して愛を感じる』Aさんと
『距離や自由を尊重することで愛を示す』Bさんがいるとしよう。

Aさんは毎日「愛してる」と言葉で確認したいし、できるだけ多くの時間を一緒に過ごしたい。相手の全てを知りたいし、自分の全てを知ってほしい。
でも、Bさんは過度な連絡をせず、相手の自由を信頼したい。相手を束縛しないしないのは、 相手の人格への最高の敬意であって、適度な距離感は社会が強要する「孤立」や「無関心」とは違く、相手の個性を尊重する愛である。

しかし、Bさんの行動は、Aさんにはこう映る。

Bさんの行動: 「週末は一人で趣味の時間を過ごす」 Aさんの解釈: 「私といるより一人でいる方が楽しいんだ…私は大切じゃないんだ」

Bさんの行動: 「LINEの返信が数時間後」 Aさんの解釈: 「私のことはどうでもいいんだ…優先順位が低いんだ」

同時に、Aさんの行動は、Bさんにはこう認識される。

Aさんの行動: 「頻繁に連絡を求める」 Bさんの解釈: 「なぜ僕を信頼してくれないんだろう…束縛されているみたい」

Aさんの行動: 「もっと一緒にいたいと訴える」 Bさんの解釈: 「僕なりに大切にしているのに、なぜ不満そうなんだろう…」

これはスペイン語しか話せない人と中国語しか話せない人が、お互いに「愛している」と叫び合っているのに全く通じない状況と同じだ。どちらも自分なりの最高の愛を表現しているのに、それが相手には全く伝わっていない

どちらも本人にとっては正当で美しい愛の形だ。重要なのは、それぞれの愛の形を「優劣」ではなく「相性」の問題として理解することだ

軽やかな関係を求める人を「冷たすぎる」と道徳的に貶めたり、深い愛情を求める人を「重い」「未熟」と貶めるのではなく、「相性が悪い」として適切な距離を取ることが重要だ。

恋愛に唯一の正解はない。あるのは「自分にとっての正解」と「相手にとっての正解」、そしてそれらが奇跡的に一致した時の幸福だけだ。

だからこそ大切なのは、相手を変えようとすることよりも、まず自分の愛し方を理解すること、そしてそれに近い感覚を持つ相手と関係を築くことだと考えられる。


恋愛にとっての成長とは


感情の激しさを「未熟」とし、感情の回避を「成熟」とする社会的価値観こそが、多くの人の真の幸福を阻害している可能性があり、様々な恋愛スタイルが人によってあることがわかった。

しかし、ここで疑問が浮かぶ。 「ありのままでいいなら、恋愛において『成長』なんて必要ないのでは?」「自分の好きなように、自由に生きていればいいのでは?」


しかし、自由と成長は対立するものではない。むしろ、自分らしく生きるためには、ある種の成長が必要になる。

ただし、ここで言う「成長」は、世間が言うものとは全く意味が違う。

世間が求めているのは、社会適応型成長だ。これは社会が求める「理想像」に自分を無理やり合わせること
「依存的→自立的」
「感情的→理性的」
「重い→軽い」
「甘えたい→一人で平気」
と自分の本当の欲求を「間違っている」と否定し、他者の期待に服従する事で、表面的には「自分を磨いている」ように見るが、中身としては 自己否定と同調 になりがちだ。

具体例:
お姫様扱いされたい女性が「自立した大人の女性」を演じる → 毎日が苦痛、深読みと不安に苛まれる、本当の自分を隠し続ける疲労

一方で、魂の成長は、自分の本質をより深く理解し、それを隠さずに表現できるようになることだ。自分の欲求を否定せず洗練させることで、自分らしく生きながら、より幸福で持続可能な関係を築ける。「今の自分はダメだから変える」のではなく、「本当の自分をもっとちゃんと生きられるようになる」というプロセスだ。

具体例:お姫様扱いされたい女性が、その欲求を素直に表現する方法を学ぶ → 救世主願望のある男性と出会い、毎日甘やかされて幸福

ただ、「欲求そのもの」と「その表現」を分けて考えることだ。
以下は、あなたのアイデンティティの一部であり、社会が何と言おうと守り抜くべきものだ

「深く依存したい」「毎日愛を確認したい」「お姫様扱いされたい」「相手と一体化したい」「自由で軽やかな関係がいい」「一人の時間が必要」「束縛されたくない」「適度な距離感を保ちたい」「誰かの世話を焼きたい」「尽くすことに喜びを感じる」「相手を守りたい」「必要とされることで満たされる」

これらの欲求は、車で例えるなら「エンジン」のようなもの。これを変えようとするのは、車のエンジンを取り外そうとするのと同じくらい破壊的だ。一方で、欲求の表現方法は洗練させる価値がある。同じエンジン(欲求)でも、ハンドルの切り方(表現方法)次第で、目的地に到達できるかどうかが決まる。

Before(破壊的表現):
不安な時→黙って不機嫌、「察してほしい」という間接的攻撃
寂しい時→わざと冷たくして試す、他の異性の影をちらつかせる
愛の確認→SNS監視、一言一句の深読み、勝手な解釈で自爆
独占欲→束縛、嫉妬の爆発、相手の自由を奪う

After(建設的表現):
不安な時→「不安だから話を聞いてほしい」という直接的な言語化
寂しい時→「寂しいから会いたい」という素直で正直な伝達
愛の確認→「私だけを見てほしい」という率直で具体的な要求
独占欲→「あなたを独占したい」という正直で透明な表明

つまり、「何を求めるか」は一切変えなくていい。「どう伝えるか」だけ工夫すれば、相手が受け取る印象は天と地ほど変わる。これは「自分を否定する成長」ではなく、「自分をより正確に相手に伝える成長」だ。

【関係は固定されない】

しかし、どんなに相性が良くても、人間は変化する。病気、失業、家族の問題など、予期しない状況で関係が試される。

例えば、お姫様願望の女性と世話焼きの男性のカップルがいたとして、もし男性側ががうつ病で倒れたら、女性は一時的に支える側に回る柔軟性を持てるか?
もしお姫様だった女性が仕事に目覚めて「もっと自立したい」と変化したら、世話焼きの男性は「必要とされなくなる恐怖」を乗り越えて彼女を手放せるか?

「たまたま良い相手と出会えたから、もう何も変わらなくていい」という考えは理解できるが長期的には危険ではある。なぜなら、人生は変化し続け、関係も常にアップデートが必要だからだ。

本音を出すことで「初期の相性」は格段に向上する。しかし、それは「永遠に完璧」を保証するものではない。 つまり、「本音を出す」はスタート地点を最適化し、「柔軟性を持つ」は関係を維持する。結果として、両方が必要だ。

恋愛における成長とは、感情を消すことでも、一人で完結することでもない。

感情を殺して「冷静な大人」になるのではなく、激しい感情の波を否定せずに乗りこなすこと。
一人で完結するのではなく、自分の弱さを認め、適切な相手に「上手に頼り、頼られる」関係を築くこと。
社会が押し付ける「理想の恋愛像」に自分を合わせるのではなく、自分の本質(欲求)が最も輝く相手や環境を自ら選び取ること。

そうした力の積み重ねが、結果として自由と安定の両方を支える。


最後に:「嘘の服」を脱ぎ捨て、あなただけの愛を見つける勇気


私たちがこれまで身にまとってきた「社会の理想」という名の服は、本来、自分を守るためのものだった。

「自立した大人の女性」「重くないスマートな恋人」
そうしたあり方は、確かに傷つくリスクを減らしてくれる。拒絶されたとしても、「本当の自分ではない」と距離を取ることができるからだ。

けれど、その鎧を着たままでは、誰かの優しさや愛情も、深くは届かない。

本当に求めているものに触れるためには、どこかでその「嘘の服」を脱ぎ、自分の欲求や弱さをそのまま差し出す必要がある。

しょくぱんまんは、優しくて、正しくて、誰にでも平等に手を差し伸べる理想的な存在だ。社会的に見れば、非の打ちどころのないパートナーに見える。

けれど彼の優しさは「みんな」に向けられている。そのため、「自分だけを特別に見てほしい」という欲求は、満たされにくい。

ドキンちゃんが夜中に泣き叫んで「私だけを見て!」と懇願したとき、しょくぱんまんは優しく諭すことはあっても、その泥臭く激しい感情の渦に飛び込んで一緒に溺れてはくれない。

一方で、ホラーマン は、決して完璧ではないし、理想的とも言えない。それでも、特定の相手に強く寄り添い、その感情に応えようとする存在だ。しかし、ホラーマンはあなたの「わがまま」を「わがまま」として拒絶しない。むしろそれを「あなたらしさ」として愛おしく思い、献身的に応えてくれる。あなたが「私だけを見て!」と叫んだとき、「君だけを見ているよ」と、そばに留まってくれる。

しょくぱんまんは決して、悪いわけではない。 問題は、ドキンちゃんタイプの女性がしょくぱんまんを選ぶことだ。自分がどんな愛を求めているかによって、合う相手は変わる。

もしあなたが、「深く愛されたい」「特別に扱われたい」「強く求め合う関係を望んでいる」のであれば、その気持ちを隠し続ける必要はない。

「私はこういう関係を望んでいる」と言葉にすることは、誰かに負担を押し付けることではなく、自分に合う相手を見つけるための誠実さでもある。

「私はすごく甘えたいタイプなんだ。毎日連絡したいし、頻繁に会いたい。それが重いと感じる人もいると思うけど、これが私なの」

そんな言葉を投げかけた時に

あなたの感情を「重い」と拒絶する人ではなく、「君の感情の波こそが、君らしくて愛おしい」と言ってくれる人。
あなたの自由を「わがまま」と非難する人ではなく、「君の自由な魂が好きだ」と尊重してくれる人。
あなたの依存を「未熟」と見下す人ではなく、「君に頼られることが嬉しい」と喜んでくれる人。

それがあなたの「ホラーマン」だ。大切なのは、あなたがあなたのままでいられる相手かどうかだ。

あなたの中にいるワガママで、寂しがり屋で、愛されたくてたまらない部分も、一人の時間を愛する部分も、自由を求める部分も、全て命の熱量そのものであり、この世界でたった一つの美しい個性だ。 

「本当の自分」が否定される痛みは、「演じていた自分」の比ではないし、社会の期待に合わせることで得られる安心もある。けれど、自分の欲求に正直になることでしか得られない幸福もある。

そのどちらを選ぶかは自由だが、少なくとも、「本当は自分が何を望んでいるのか」を見失わないことが大切だと思う。


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