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恋人を失ったんじゃない。自分の中の『半分』が引きちぎられたんだ。


失恋の時、感じる痛みは
自分の半身を失った感覚に近い。


たとえば、長い間寄り添ってきた恋人との別れ。
その人とつないでいた手は、もう握り返してくれない。

同じ景色を見て、同じ未来を信じていたはずなのに、気づけばその未来ごと、ぽっかりと穴が空いている。

失恋の苦しさは、ただ相手を失うことだけではない。自分を照らしてくれた存在の証明ごと消えてしまう。

それはまるで、
自分という存在を形作っていた半分の体が、突然引きちぎられたような痛み。片方がなくなった重心は大きく傾き、自分で立つことさえおぼつかない。

でも、だからこそ、その喪失の痛みは
私が本気で好きだった証拠でもある。

半身を失ったような夜に、
確かに痛むその場所は、
かつて、誰かとつながっていた確かな痕跡。

その痕跡を新しく再生させるためにはどうしたら良いのか。

私の新たな半身はどこにいるのだろうか

miyuuの作品「半身」

こんにちは、美大在学中のmiyuuです🌙
よくアーティスト・美大生以外の方とお話しすると、「美大生・アーティストの恋愛はユニークそう」と言われることが多いので、自分が考える恋愛論をシェアしたいとおもいます。

冒頭で述べた通り、私は失恋をしたときに
相手を失ったというよりも、自分の中の半分を失ったように感じる。
恋が終わったあとに、自分というパズルをもう一度、完成させていく時間が始まる。

ということは、恋愛において私は「自分の不完全なパズルを埋めるピースを探し求めているのではないか?」とたびたび思う。

そのかけたパズルのピースはどこにあるのだろうか。


恋愛には3種類の型がある

恋愛には、いくつかの「型」があると感じている。私は今のところ、三種類の恋の型に出会ってきた。

打ち上げ花火型の恋
灯火型の恋
そして鏡型の恋だ。

どれも私を形づくったが、最後の鏡型の恋こそが、自分という人間を深く見つめ直すきっかけになった。

①|【打ち上げ花火型の恋(激情)】

これは学生時代にほとんどの人が1度は経験するのではないだろうか?
私もかつてそうだった。

基本的に相手を深く知る前に、相手の外見、立ち振る舞いから突発的なときめきに酔いしれ、相手の実像を知る前に「この人はきっとこういう人だ」「この人は私を愛してくれる」と勝手に理想像を作り上げてしまう。

そして、その高揚感に身を任せ、気持ちはまるで打ち上がる花火のように一気に昇っていく。けれど、理想と現実にズレが生じた瞬間、期待は音を立てて弾け散る。

まるで夜空に咲いた一瞬の大きな花が、次の瞬間には儚く消えてしまうように。非常に短期的で、持続しない、でも強烈な感情の爆発である。

これは、特にアーティスティックな人に多い恋愛の形だと思う。なぜなら、アーティストは常に「イメージの世界」で生きているからだ。

創作とは、目の前にないものを想像し、形にしていく行為。
つまり、「現実よりも先に理想を見る」という癖が、日常の思考にも染みついているのではないかと予測する。
恋愛においても同じで、相手の実像を知るよりも先に、その人の纏う空気感や声、立ち振る舞い、言葉の端々から自分都合の物語を作ってしまう。
そして、その物語の中で恋をする。

芸術的感受性が高い人ほど、感情の振れ幅が大きい。だからこそ、恋の高揚も激しく、失望もまた深い。相手を「ひとりの人間」として、自分とは独立した相手として見る前に、「作品」として見てしまうのだ。

けれど、現実の相手は決して物語の登場人物ではない。
理想と現実のズレが生じたとき、アーティストの恋は一気に終焉を迎える。
まるで、完成しなかった作品のように。

理想を相手に重ねるということは、自分の欠けたピースを「理想の投影」によって埋めようとすることでもある。

相手に理想を重ね、「この人こそ、私の欠けた部分を満たしてくれる人だ」と信じてしまうのだ。
けれどそれは、まだ自我が未成熟な時期に多い恋の形でもある。
自分の内側にある空白や孤独を、相手の存在で一気に埋めようとする。

まるで、まだ形の定まっていないパズルの上に、
無理やりピースをはめ込もうとするように。

最初はぴったりはまったように見える。
でも時間が経つと、微妙なズレが浮かび上がり、
やがてそのピースは、もともと自分のものではなかったと気づく。


②|【灯火型の恋(静かな持続 )】

こちらは静かにゆっくりと長く燃える恋。
派手さはないけれど、そばにいるだけで安心するような温度がある。
相手を思いやるほど、炎が安定していく。

しかし、油を注ぐのを忘れれば、いつの間にか小さな灯は消えてしまう。
維持するには、注意と優しさが必要だ。

物足りなさから離れていってしまうことがあるが、灯火のような恋は、生活の一部に溶け込むがゆえに、情熱の代わりに日常のぬくもりを教えてくれる。

個人の経験談だが、非アーティストとの恋愛はこのパターンになる確率が多い気がする。

なぜなら、アーティストは常に刺激や新しい感情を求めて生きているからだ。創作とは、日常の中に発見を見出す行為であり、平穏な状態よりも、葛藤や不安、変化の中でこそインスピレーションが生まれる。

そのため、穏やかで安定した関係ほど、
「創造的な火花が出ない」と無意識に感じてしまうことがある。
相手に問題があるわけではなく、
心が動かない=恋が冷めたと錯覚してしまうのだ。

けれど、灯火型の恋は、
静けさの中にこそ深い感情が息づいている。
一瞬の情熱ではなく、相手を「作品」ではなく「生活の一部」として愛せるようになる段階。つまり、愛することが「創造すること」から「育てること」へと変化する瞬間だ。アーティストが作品と対話しながら時間をかけて形にしていくプロセスに似てている。

アーティストにとってこの恋は、
創作の衝動ではなく、成熟の訓練に近い。
燃え上がる恋を経験した後に、初めてこの静かな灯りの尊さに気づき、
一瞬の感情よりも「関係を紡ぐ美しさ」を学ぶ。

打ち上げ花火型のような、相手への理想の投影は落ち着き、「現実の相手」と向き合うようになる。
相手を変えようとせず、互いに未完成なまま支え合う。

ここで人は少しずつ学ぶ。
「相手がいるから自分を見失わずにいられる」
つまり、他者との関係を通して自分を保つ力を取り戻し始める段階。
この段階では、自分の欠けたピースは気にならなくなる。

③|【鏡型の恋(内省的成長)】

これは、最も痛みを伴う恋だ。

相手の言葉や態度を通して、自分の弱さや未熟さが映し出される。
相手を責めるたびに、それは自分の中での欠けを見ていることに気づく。
鏡型の恋は、相手という鏡を通して自分と向き合う恋だ。

相手と一緒にいることで、知らなかった自分に何度も出会う。
そしてそのたびに、愛することの難しさと、
人を愛するとは、自分を愛することだ」という真理に近づいていく。

アーティストにとってこの「鏡型の恋」は本来最も本質的で、創作の源になる恋になると思う。

アーティストは常に「自分とは何か」を探り続ける存在である。
だからこそ、恋人という他者を通して見える、理想ではない「ありのままの自分」に対して、人一倍敏感で、深く反応してしまう。

恋の中で相手に感じる違和感、怒り、嫉妬、焦り。
それらは実はすべて自分の中にある未解決の感情の投影。
鏡型の恋は、そうした投影と感情の回収の連続によって、アーティストをより深い自己理解の領域へ導く。

だからこの恋は痛みを伴う。
でも、その痛みの中からこそ、
人間としても、表現者としても「厚み」が生まれる。

この恋を経て初めて、
「誰かに欠けたピースを相手に埋めてもらう」ことや「ピースを無視する事」をやめて、自分で新たにピースを作り出すことができる。


そう考えると、恋愛とは、単なる他者との関係性ではなく、自分という存在の「成長段階」を表す。

だから私たちは、何度でも恋に落ちる。
相手を変えながら、時に同じ過ちを繰り返しながら、
まるで魂が「本当の自分」を見つけ出すまでの長い旅をしているかのように。


恋人に対する不満は自分への不満だったりする


もっと恋人に構ってほしい。
一緒にいるのに、なぜか寂しい。


打ち上げ花火型の恋では、
「どうして分かってくれないの」「なんで連絡くれないの」と相手を責めてしまう。

でもこの感情は、相手がどれだけ優しくしてくれても、どれだけ時間を共有しても、根本的には癒えない。
なぜなら、その寂しさは「自分が自分を構っていない」という現実から生まれているからだ。

鏡型の恋では、相手の中に自分を映す鏡を見つけた瞬間、「恋人にもっと構ってほしかった」と思っていたけれど、実は「自分が自分を構ってあげていなかった」ことに気づく

たとえば、
寂しいときに無理して明るく振る舞ったり
相手に気を遣って自分の感情を押し殺したり
相手の予定に合わせて、自分の時間を後回しにしたり

そうやって自分の気持ちを置き去りにしていたことに、鏡型の恋を通して気づく。

そこから恋が相手に一方的に向かうものではなく、自分に戻る道に変わっていく。

そして、自分を愛する力を取り戻す。


私たちはしばしば、相手を鏡のように使う。
相手の反応を通して、自分の存在価値を確かめようとする。しかし、鏡に映るのはあくまで今の自分であって、相手が私を満たしてくれるわけではない。

恋人は、自分の願いを叶えるための存在ではない。
相手は私のために生まれてきたわけでもない。
相手は、ただ「私が自分自身をどう扱っているか」を映してくれる存在にすぎない。寂しさとは、相手からの愛が足りないのではなく、「自分と自分自身の関係」が薄れているサインなのだ。


自分を愛する力を取り戻すには


鏡型の恋を経験すると、「相手に満たしてもらうのではなく、自分が自分を満たすこと」が必要だと痛感する。

自己肯定感とは、「ありのままの自分を認め、価値を信じられる感覚」のこと。でも、世の中では「どれだけ他人から愛されているか」で自分の価値を測ってしまう人が少なくない。

けれど本来の自己肯定感は、「自分が自分をどう扱うか」その一点に尽きると思う。

とはいえ、「自分を大切にする」と言われても、どうすればいいのか分からない人も多いだろう。

高級ディナーを食べること?
広いマンションに住むこと?
ハイブランドを身につけること?

それらも悪くはないけれど、もっと根本的で、日常的なレベルで自分を大切にすることができる。

それは自分を小さい子供として扱うことだ。

例えば、私はmiyuuなので、自分を小さい子供として「みーたん(5歳)」として認識する。

みーたん(5歳)がお腹をすかせてるとする、そしたらみーたんが好きそうなご飯を与える。

みーたん(5歳)がトイレに行きたそうにしている、そしたらトイレに駆け込む。

夜中10時なって、みーたん(5歳)が眠そうにしている。そしたらベッドに行き寝てみる。

もし、目の前にいる5歳の子が空腹なのに食べさせなかったり、眠いのに寝かせなかったりしたら、それは虐待と呼ばれる。でも、私たちは自分自身には平気でそれをしている。

お腹がすいても「ダイエット中だから」と我慢したり、
トイレに行きたいのに「今は話の途中だから」と耐えたり、
眠いのに「テストがあるから」と徹夜したり。

自分をないがしろにするたび、
心の中の小さな自分が泣いているのかもしれない。

自分を愛するとは、
自分の声を丁寧に聞き、必要なケアを惜しまず与えてあげること。
それは特別なことではなく、日々の小さな選択の積み重ねなのだ。


アートの本質も「自己との向き合い」だと思う。
他者や社会に承認されるというビシネス的視点も売り出すには大事かもしれないが、自分の中の声を丁寧に聞き、形にしていくことが創作の核心。

恋愛もまったく同じ構造を持っている。
最初は他者(=インスピレーション)に熱狂し、
やがて日常(=継続のプロセス)を経て、
最終的に自分自身(=創造の源)へ還っていく。

つまり、恋愛の終着点は「自己愛の回復」であり、それは創造の原点と同じ場所にあるのではないだろうか。



失恋しても自分を失うことはない


恋をしているとき、私たちはしばしば相手を鏡のように見つめてしまう。
相手の瞳の中に、自分の価値や存在の意味を確かめようとする。
「この人が私を愛しているから、私はここにいていい」そんなふうに。

けれどその鏡が自分を映し出さなくなった瞬間、私たちは途方に暮れる。
相手を失うことは、自分を失うことのように感じるから。
その鏡の中に映っていた「自分らしさ」や「生きる意味」までも一緒に消えてしまった気がするのだ。

でもそれは、相手に自分の姿を預けてしまっていたから、その人がいなくなると、自分を見失ってしまう。

本当の意味での愛とは、
相手に映る自分を愛することではなく、
鏡がなくても、自分の中に光を見出せることだ。

その光を取り戻すために、まず私たちは
「自分を愛する力」を取り戻さなければならない。

失恋をしても、別に自分を失うことはない。
むしろその痛みの中で、「誰かのための私」ではなく、「私としての私」を取り戻すのだから。


⚪︎自己紹介⚪︎

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