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20歳の私が考える愛と恋の違い

こんにちは!現在ニューヨークの美術大学に留学してるmiyuuと申します。

アーティストであれば作品を作る上、「愛」をテーマとして扱う事が多いと思う。『人間関係の悩みを消す アドラーの言葉』の著者である桑原晃弥は、愛の重要さについて下記のように述べている。

”人生の課題は「仕事」「交友」「愛」の3つである。人は社会的生き物であり、人と人とが協力し、お互いに足りないものを補い合うことで人は自分の限界を超えていくことも可能になる”
引用:桑原晃弥、2020、人間関係の悩みを消す アドラーの言葉

このように、愛は人生を通して学ぶ大きな課題とされ、市場に出ている音楽、劇、美術館の作品では「愛する子供の代わりに、自ら敵のおとりになる」「愛を知って世界がキラキラして見える」などと、人を愛する事は人生に何か大きな意味を与える行為だと定義づけられている。

この記事では、20歳の私が考える「愛と恋の違いは何か」を書きたいと思う。

↑2026年に25歳が考える愛と恋の違いを書いております。かなり記事の内容が違うのでもしよければ読んでいただけると嬉しいです。

20歳の私が考える愛と恋の違い

「恋と愛の違いとはなにか?」と聞かれたら、あなたはなんて答えるだろうか。

恋や愛は人によって経験が違うので、考え方は何通りもあるが、「愛は恋の助長であり、愛は恋より深い”感情”だ」と認識している人は多いと思う。

しかし私は”恋は感情”、愛は意志”であり、愛は「感情」ではないと考える。
なぜなら感情は、自分の意思とは関係なく突発的に自然と一時的に湧き、それがずっと続くとは限らないからだ。
愛とは永続的な意志が必要だと考える。

①恋とは何か

恋とは相手の属性(容姿、学歴、性格、仕事)や所有物(お金、家)に価値を感じ、気持ちが高揚し、相手に受容されたり、支配したいと願う自分本位な感情だと思う。
「付き合って1ヶ月目はラブラブだが、3ヶ月目には倦怠期に陥る」とよく言われているが、恋が感情とされる場合、高揚した気持ちが徐々に収まっていくのはごく自然な現象だ。

自分本位な感情とは何か、日本の国民的漫画『ドラえもん』で例えてみよう。

ドラえもんでは、主人公・のび太は、可愛いヒロイン静香に好意を寄せている。静香はのび太の同級生であり、公式サイトでは容姿は可愛く、勉強ができるしっかり物でクラスの人気者と紹介されている。作中でも、のび太がジャイアンやスネ夫にいじめられているときに助けるなど優しい一面を見せたりと、静香の容姿、性格、知性という属性が優れていると見受けられる。
ドラえもんの話の中で「たまごの中のしずかちゃん」という回がある。のび太はクラスの優等生である出木杉と静香が仲良く話しているのをみて「2人の関係がいい感じなのではないか?」と不安に陥る。そんなのび太の為に、未来から来たロボット”ドラえもん”は巨大な卵型をした秘密道具を出す。その卵の中に入った人は、フタが開いたときに最初に見た人のことを好きになるのだという。そして、のび太はその卵形道具に静香を入れようとする。

この回では、のび太は「静香と出木杉はくっついて欲しくない」という願望から秘密道具を使い、静香に自分を好きにならせると企んでいる。ここで注目して欲しいのが、のび太は静香の意向を完全に無視しているところだ。”静香の意思を自分がコントロールしたい”という支配欲が動いている。これぞ、自分本位な感情である。

①ー② 恋からは何を学べるのか?

人と恋愛関係を持つ事により、嫉妬心、独占欲と新しい感情が湧く。相手を通して自分の新たな資質、直すべきところ、長所など、自分自身では気づけなかったことを知ることができ、また、相手がいなくて独り身でも自分自身1人で生きる事には責任が伴うので、恋人がいてもいなくても、どちらの状態でも学びはあると思う。

私は、人は恋愛関係を持つ上で恋をしている時より、失恋をした時にどう乗り越えるかで人はもっと成長すると考える。なぜなら失恋した時、自分が自分自身をどう扱っていたか浮き彫りになるからだ。

まず、誰しも失恋をした時は落ち込む。
落ち込む理由として、「失われた幸せや思い出への未練」「自分を否定されたような感じ」があげられるだろう。そして、徐々に時間が経ち新しい出会いや経験があると、自尊心は修復し、立ち直ることができる。

しかし、中には自己否定を繰り返し、過去の失われた関係に執着をしたりと失恋を忘れられない人たちがいる。なぜなら自分の価値を他人に委ねているからだ。恋愛をしている時は「自分は相手に必要とされている」と自身の存在価値を証明されたかのように感じ安心感を覚えるが、失恋をした事により「価値がない自分」と認識し、また新たに価値を見出そうと恋人探しに明け暮れる人もいる。
人付き合いで大事な点は「執着をせず、1人でも充実していること」だと思う。
なぜなら貴方を幸せにできる人は貴方のみで、他人は貴方を幸せにするために生まれてきたわけではないからだ。

例えば、貴方に好きな人ができたとする。その時に「あの人に好きになってもらいたい」という考える人が多いが、裏を返せば他人の意思を自分でコントロールしようとしている。大事なのは「あの人に好きになってもらえるような素敵な自分になりたい」と自分の意思を自分でコントロールすることだ

寂しさを紛らわすため、不足感を埋める為などの理由で恋人探しをする人もいるが「誰かに幸せにしてもらう」という考えを手離し、「自分ひとりでも幸せ」と感じることが生きていく上では必要だと思う。

失恋をして立ち直るためには時間の経過以外にも、自分で自分自身を大事にし、1人でも充実できることをみつける必要がある。「1人でも私は十分幸せ」と思えたならば、他者から自分の価値を見出すという考えが変わるのではないかと思う。

②愛とはなにか

私は、相手の存在に感謝し、相手の幸せを願い、成長を応援することが「愛する」なのではないかと思う。

相手の存在に感謝するとは、相手の所有物に価値を感じるのではなく、相手がただ存在してくれることに価値を感じることであり、
相手の幸せを願うということは、相手に与えることであり、
相手の成長を応援するということは、相手に常に与え続けるのではなく、相手の成長に応じて制限することである。
そしてこれらの行動には保証がない、なぜなら貴方が相手を愛していても、相手がからなず貴方を愛するとは限らないからだ。それでも愛するには、強い決断が必要だ。

では、もしのび太が静香を愛していたら、上記で述べていた「たまごの中のしずかちゃん」での状況がどう転換するだろうか。
私が考えるに、のび太が静香を愛しているならば、出木杉と静香が仲良く話しているのをみても、彼は「静香ちゃんが幸せなら…」と彼女の幸せを願い、ドラえもんから道具を差し出されても私利私欲のために使わないかもしれない。

「好きな人が幸せならば、自分とではなく別の人とくっついてもいい」
そう思えるのは難しいと思う。だからは私は愛は感情ではなく、意志だと思う。

意思とは”目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働き。知識・感情に対立するものと考えられ、合わせて「知情意」という”
引用:goo辞書 2020年12月9日閲覧

②ー②なぜ愛するには意志が必要なのか

のび太が静香のことが好きな理由は、容姿が良い、優しい性格の持ち主だからであると推測する。では、もし静香が美しい容姿を失ったり、受験勉強からのストレスで他人にキツくあたるようになったら、のび太は変わらず「僕は静香ちゃんが好き」だと断言できるのだろうか。

そして、もし静香より多くの優れた所有物を持った人が現れたらどうなるだろうか。2007年に公開された「ドラえもん のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜」という映画では、美夜子という美少女の魔法使いが出てくる。
彼女は天文学者の助手を任せられるほどの「知能」をもち、劇中でのび太たちを助けるなど「優しい性格」を持ち、美夜子が現れた時、のび太とその仲間は頬を赤くするほど「美しい容姿」を持っている。のび太が彼女に恋をしたという発言は劇中にはないが、エンディングでの美也子とのび太の別れのシーンから、美夜子に恋をしていたのではないかという描写が伺える。

小学生であるのび太に「静香への愛はあるのか?」と詮索すること自体が間違ってはいるが、このことから、1人の人を好きでいつづけるには、相手が属性や所有物を失っても、相手に何が起きようと、その気持ちを保ち続けるという強い意志が必要である。

恋は「今の恋人より、あの人の方が魅力的だ」と他者に対する感情は変化しやすい、しかし愛においては「今の夫または妻を愛するのはやめた」という感情的変化が応じません。一度愛すると決めたら、相手が例え属性や所有物を失っても、死んだとしても、その相手への愛は永続的に残ります。

仮に、もしあなたの愛するパートナーが死んで、別のパートナーをみつけても、「あの人(死んだパートナー)のことは忘れよう」とはならず、今のパートナーとは別の次元の愛として心に残り続けると思う。

ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者であるエーリッヒ・フロムは自身の本の中で、愛についてこう語っている。

”愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性であるもし。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない”(フロム、p.76)
引用: Erich Fromm、鈴木晶 訳、1991 、『愛するということ』、紀伊國屋書店

愛する相手の対象というのは、他者だけではなく自己、人間以外の生命、自然、地球、宇宙を含め。特定の誰か以外は愛さないことが愛の強さを示すわけではない。
誰かを愛するということは、その人を通して自分、他者、世界を受容し愛するということである。このように、愛という概念は宇宙観にも繋がります。

②ー③愛は自然に学ぶものではない

ほとんどの人間は「人は生まれてから、両親、友達、学校の先生など様々な人と接し「愛とはこういうものだ」と自然に学ぶ」と思い込み、置かれる状況や環境によっては誤った事実を愛として解釈することが多い。
フロムは本の中で”たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている”と語っている。例えば、「〇〇をしたら愛してあげる」という言葉を投げかけられ、成長をすれば「〇〇じゃなければ自分は価値がないので愛してもらえない」と愛される条件として自分の属性や所有物と等価交換してしまう人がいる。自分は美しくないと愛されない、学歴がよくないと愛されない、稼ぎがよくないと愛されない…そう思い込んでいる人が多い。逆に「相手が〇〇だから愛せる」と思い込むこともある。しかし、その等価交換から生まれるものは愛ではないと思う。

人を愛するためには、愛の本質を学ぶ必要があると感じさせられた。

最後に

以上が20歳の私が考える恋と愛の違いである。
私は高校生の頃、人間関係において”困っている人”を放って置けなかった。落ち込んでいる人がいれば常に気にかけていて、相談に乗っていた。しかし、思い返してみれば、私は純粋な利他心で相手を救おうとしていたのだろうか。私は相手が「今は落ち込んでいないだろうか?」と精神状態を常に把握し、「ここはこう考えるべきだよ」と相手がどう振る舞うかを、相手ではなく私が決めるという心理が働いていたと思う。つまり、私は相手の成長基盤を奪っていた。人生の中で立ち向かう試練は人それぞれ違い、その試練は他者である私ではなく、試練を迎えた本人が乗り越えないといけない。時には相手の成長のためにも相手から離れないといけない時もある。人に愛を持って接する時には自分自身も精神的に豊かにならないといけないと考えさせられた。

私は今まで小学校から大学までと、一つの枠組みに所属していたので、同じ家庭環境や価値観をもった人としか接してきていない。今後社会に出た時、様々な人と接し、経験を積み新たな知覚を発見し、人を愛せるようになるまで成熟した大人になりたい。

愛とは、自分自身あるいは他者の精神的成長を培うために自己を広げようとする意志である(ペック p 80)
引用:M. Scott Peck, 氏原寛訳,2010 愛すること, 生きること

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

写真素材:ぱくたそ


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