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花女05 |九条武子、 身分制と慣習の抑圧の下で

2025年7月5日/記
         (敬称略)

 男性専科から女性専科への大転換は、明治時代の内にほぼ達成された。一様な流れではなく、様々な水脈があって、それらが合流することで大きな流れになったのである。水脈の1つが上流階級のいけばなであるが、上流階級の女性に流行した、といった次元での理解では不十分である。彼女たちの内面の問題が深く関わっているからだ。
 上流階級の女性たちも、大正時代には、自我の目覚めの時を迎えた。ただ、それぞれの立場や事情によって、目覚めの様子はずいぶん異なる。九条武子などは、格別の立場と事情を抱えた一例であった。身分制や慣習の厳しい抑圧下にあっても、彼女なりの自我の確立を果たそうとしたようである。なるほど、特殊ではあったが、上流女性の心の声を代弁していたのではないか。


🔴国民の多くが関心を寄せた『金鈴』の人

(初出「日本女性新聞」2015/10/1 第14回)

           (図1) 九条武子 

 今の時代に九条武子(明治20~昭和3)を知る人はどれほどいるのだろうか。私はいけばなの研究に手を染めるまで知らなかったし、知ったといっても西川一草亭を支えた上流女性の1人といった程度の認識だった。しかし、調べてみると、彼女はただの上流女性ではなかったのである。大正時代の国民が大きな関心を寄せた人物であり、大正の上流女性を代表する人であった。亡くなった時に『東京朝日新聞』が、彼女の死の翌日から4日連続で追悼記事を書いたくらいである(注1)。
 彼女を有名にした原因の1つは文才であって、大正9年6月発行の短歌集『金鈴』(注2)によって一気に国民の関心が向けられるようになった。ただし文学的内容よりも短歌が伝える彼女の私的物語の方がより関心をもたれた。結婚後じきに英国留学してしまった夫を10年もけなげに待ち続ける美しい夫人、それが当時の国民が抱いた九条武子のイメージであった。『金鈴』から2首紹介しておこう。

   みわたせば西も東も霞むなり君はかへらずまた春や来し 
   家をすて吾をもすてん御心か吾のみ捨てむおんたくみかや

 彼女の言葉に多くの国民が心を揺さぶられ、哀しみに耐える姿に日本女性の理想を見たのである。ただ、いろいろ問題がある。国民が彼女の短歌を誤読した可能性があるのだ。この問題は改めて検討しよう。

 さて彼女は『金鈴』によってブレイクしたわけだが、『金鈴』以前から相当な有名人だった。たいへんな美人だったからである。いわゆる大正3美人の1人であり、他の2人は柳原白蓮と江木欣々(林きむ子とするケースも)である。また、雑誌『女の世界』大正4年10月号では、九条武子を小笠原伯爵夫人と前田侯爵夫人とともに〈日本3美人との評ある方〉と記している(注3)。3美人もいろいろなのである。ともかく美人ということが有名人となった一因であるが、さらにその身分も一因であった。
 ある日のこと、彼女は親族と一緒に六甲山のラジウム温泉「苦楽園」に遊んだ。この一行を担当した従業員がびっくりして園主に〈 女優のようなお方が来やはりました 〉と報告。園主が挨拶に出て名を聞くが曖昧な答えしか返ってこなかった。のちに九条武子一行と判明して園主は驚き〈 早速失礼をお詫びに京都へ上がった 〉という(注4)。
 名を明かさないのだから、いくら当時でもわざわざ出かけて詫びる必要などないだろう。それよりも交際するメリットのある相手と踏んでの行動だったのではないか。美人というだけでなく、身分的にも目立った存在であったからである。

 彼女は九条良致(よしむね)男爵夫人であり、華族の一員である。華族は天皇家を守り支える人々として明治に生まれた近代貴族であり、戦後の日本国憲法成立によって消滅した。その間増減があって最大時は955家。爵位が与えられるのは男性戸主のみだが、その戸籍に入っている家族も華族とみなされた(注5)。
 日本3美人の記事が出た大正4年時の華族総数は約6,000人(注6)、総人口は推定にかなりの幅があるが、ここでは約5,300万人(現住推計人口)としておこう。そうだとすれば、華族の比率は大雑把に言って約0.01%。この数値の確度には問題があるとしても、九条武子が極めて限られた少数者の1人であったことは確かである。       

(注1)『東京朝日新聞』1928年2月8~11日の各朝刊。
(注2)九条武子『金鈴』竹柏会、1920年刊。
(注3)「大正背高美人伝」『女の世界』1915年10月号
(注4)『婦人画報』1920年2月号。
(注5)参考 小田部雄次『華族』中公新書、2006年刊。
(注6)表「華族戸数と男女数の変遷」 前掲書『華族』。(初出は宮内省編纂『帝室統計書』柏書房、1993年刊)。

(図1)九条武子(出典 長谷川時雨『新編 近代美人伝 (下)』岩波文庫、1985年刊)


🔴九条武子と柳原白蓮

(初出「日本女性新聞」2015/10/15 第15回)

            (図1) 稚児髷の武子

 九条武子が男爵夫人であったことは前回述べた。日本の爵位は公・侯・伯・子・男という順位だから男爵は一番低い爵位である。ただ武子の父は伯爵なので彼女は結婚前から高い身分の華族であった。そして〈 お嬢さま 〉より格上の〈 お姫さま 〉と呼ばれていた。なにしろ父はただの伯爵ではなく、門徒700万人ともいわれた西本願寺の頂点、21世法主の大谷光尊であり、母は側室大谷藤子であった。
 お坊さんが伯爵、しかも側室がいて、娘はお姫さま。いつの時代のことかと思うのだが、れっきとした明治以降の近代である。母は、側室といっても身分は低く、あくまで大谷家の使用人という立場であった。だから武子は実母と知っていても母と呼べず、〈 おふじ 〉〈 ふじ 〉と呼び捨てにしなければならなかった(注1)。

 武子姫は、明治20年に京都六条堀川の西本願寺奥で生まれ、数え年の5歳で幼稚園に入学し、髪を輪にした稚児髷姿で通った。人力車で通う道筋では手を合わせる人もいた。当時、父光尊は生き仏であり、その子も尊い存在なのである。その育った家庭は、〈 古い習慣と一種妙な空気 〉に包まれていたという。庭でさえ1人で下りることが許されなかったし、家で働く下男たちは、彼女とすれ違いそうになると身を隠すか、隠す間もない時は彼女に背を向けてうずくまるのである。庭の花を折ってほしくても植木屋に口をきくことなどできなかった(注2)。

 こうした環境で育った武子姫は、一方でその身分にふさわしいオーラを身につけた。後年、親友の柳原白蓮が武子の法話に立ち会ったことがあり、その様子を伝えている。ある寺でのこと、そこの和尚が〈 お時間が参りました。お支度を 〉と告げると武子は鏡台の前に座った。髪をほどいて後ろに垂らし、それから真っ白な羽二重、その上に緋の袴、そして目もさめるような袿(うちぎ)を着る。〈 まさしく、生きた内裏様の女雛 〉であり、普段から武子を見慣れている白蓮さえ惚れ惚れと見入ったという(注3)。
 法話の内容も立派なものだったらしく、〈 思ったよりもお上手ねと言ったら、私は14、5の頃から言い習わされましたもの 〉と笑って答えた(注4)。美しく、神々しく、尊く。西本願寺と門徒にとって、武子姫はその少女時代から特別な存在だったのである。

 西本願寺の看板娘だっただけに結婚はたいへんむずかしかった。武子16歳の時にシャム国皇太子と見合いをしたが、父光尊の急死で結婚話は頓挫したという話がある。その後いろいろあって、父の跡を継いだ兄(大谷光瑞)の妻籌子(かずこ)が采配をふるい、籌子の弟の九条良致との結婚をまとめた。武子21歳、当時としては晩婚である。
 先ほどの「その後」のいろいろに、兄光瑞に仕えていた青年が武子に恋い焦がれて泣きながら告白した、という話がある。あるいは兄が武子の夫にと見込んだ青年がいたという話。ただ武子自身はこうした話を決して公言しない。武子の死後に柳原白蓮が暴露するのである。そこには魔性の女白蓮の脚色が多少まじっている可能性もあるが、しかし、武子の本音は白蓮しか知らないのである。

(注1)参考 末永文子『まぼろしの柱ありけり』昭和出版、1986年刊。
(注2)九条武子『無憂華』実業之日本社、1927年刊。
(注3)柳原白蓮「憂愁の佳人九条武子」『文芸春秋臨時増刊 風雲人物読本』文芸春秋新社、1955年刊。
(注4)柳原白蓮「人物評論 九条武子女史 金鈴の作者」『婦人公論』1925年8月号。
(図1)稚児髷の武子 (出典 前掲書 『無憂華』)。


🔴短歌、心の反乱の道具

(初出「日本女性新聞」2015/11/1 第16回)

(図1)九条武子(左)と柳原白蓮

 もともと有名人だった九条武子をさらに有名にしたのが、大正9年6月発行の歌集『金鈴』である。そこには海外の夫をけなげに待ち続ける武子の私的物語が込められ、多くの国民を酔わせた。しかし、前に触れたとおり、それは国民の誤読だったかもしれない。結婚して間もない頃から夫婦仲が悪化していた可能性があるからだ。夫の良致は、結婚後じきに留学し、11年間1度も帰国しなかった。妻の武子も新婚の時に良致の留学に随行したが、この船旅の時にはすでに不仲になっていたとう説がある(注1)。実際、武子は約1年後に帰国し、それから10年、1度も渡英していないのである。西本願寺の財力なら旅費など微々たるものなのに。
 『金鈴』のブレイクは結果として武子を追い詰める。国民的関心事となったがために夫婦の真実、というよりスキャンダルを探る動きが加速するのである。海外特派員による良致の調査で外国人の愛人らしき人や2人の子供のことなどが浮かび上がってくる。
 しかし武子は一切発言しない。当時32歳、もはや西本願寺の看板娘レベルの存在ではなく、仏教婦人会本部長として多くの女性を統率するリーダーになっていた。西本願寺にとって彼女のスキャンダルは大きな痛手なので、おそらく何らかの手が打たれ、大正9年12月に良致の帰国が実現する。同月3日の『大阪毎日新聞』に「九条良致男(爵)の帰朝/愛を割いて-愛に帰る」の記事が掲載された。帰る愛は武子との愛、割かれたのは海外の愛ということか。

 武子が柳原白蓮と初めて会ったのは大正9年7月、『金鈴』出版の翌月であった。白蓮の本名は燁子(あきこ)で、父親は明治維新で活躍した公家華族の柳沢前光伯爵。母は前光の妾、没落幕臣の子ゆえに芸者になった人である。白蓮は武子より2歳年長であった。ともに佐佐木信綱門下の歌人であり、この日をきっかけに〈 タアさん 〉〈 アキさん 〉と呼び合う仲になった。
 以前放映されたNHKの朝ドラでは村岡花子が親友となっていたが、武子も親友であった。同じ華族という点ではより親密な心の交流があったと見ることもできる。武子の本音を聞いた人はこの白蓮だけなのである。

 夫からは〈 もう久しいこと手紙一本来はしませんのよ。でも、私、あの人を待ってはいません、本当はいっそ離別してくれって言ってやったんですけど 〉。白蓮が聞き取った武子の本音である(注2)。そして白蓮は武子の秘めた恋いについても聞き出している。
 前回触れた武子の兄が見込んだ青年、それは東本願寺法主の親族であった。〈 誰も側の人をつけずにお庭を歩きましたのよ 〉と、武子がしみじみ話したという(注3)。西本願寺奥の庭は自宅同然なのだが、それでも家来がついてくるのがきまりらしい。まして男と2人だけの散歩は異例中の異例、武子にとっては重大事件であり、これが武子18歳の初恋だったようだ。ならば歌に詠まれたのは夫ではなく、秘められた初恋の人だったのか。ならば『金鈴』掲載の一首はその恋なのか。

   かりそめの別とききておとなしううなづきし子は若かりしかな

 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。 歌は、ある意味便利なジャンルであり、事実関係をぼかしながらも情感だけはきっちり表現できる。明治以降も厳しい拘束のなかにあった高貴な女性たちにとって、歌はその不自由な現実をこえるための想像力の翼となった。少なくとも武子は、歌を詠むことで彼女のなかに目覚めつつあった「自我」を燃焼させたのである。お姫さまの心の反乱の道具、短歌はそんな役割を担ったように思われる。では、いけばなはどうだったのか。

(注1)参考 末永文子『まぼろしの柱ありけり』昭和出版、1986年刊。
(注2)柳原白蓮「九条武子さん」『改造』1930年10月号。
(注3)柳原白蓮「憂愁の佳人九条武子」『文芸春秋臨時増刊 風雲人物読本』文芸春秋新社、1955年刊。図版 
(図1)九条武子(左)と柳原白蓮  (出典 『流転の歌人柳原白蓮』NHK出版、2014年刊)


(花女05 |九条武子、 身分制と慣習の抑圧の下で  おわり)


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