花女06 |九条武子、弱者救済の社会活動家へ
2025年7月10日/記
(敬称略)
上流階級の女性について研究したことはない。いけばな研究の流れで九条武子にたどり着いただけなのだが、結果として、上流女性ならではの不幸と生き方が見えてきた。武子は、同じ宿命を背負った親友柳原白蓮にこう語った。〈 私たち二人のように、昔の因習道徳に縛られて、手も足も出ないようなのは、本当につまらない、短かかるべき一生を、こんな風にして終わってしまうのか 〉と思うと、何とも情けない(注1)。
宿命に唯々諾々と従って人生を終えた上流女性が多かったであろう。が、白蓮や武子はそうではなかった。白蓮は、数々のスキャンダルで世間に叩かれながら、ついに社会活動家、そして平和運動家として社会に貢献する人となった。武子姫も、〈 こんな風に 〉は終わらず、大変貌を遂げるのである。その懸命な生き方に目を向けたいと思う。
(注1)柳原白蓮「九条武子さん」『改造』1930年10月号。
🔴信綱門下から多くの女性が羽ばたく、
一草亭門下からは・・・
(初出「日本女性新聞」2015/11/15 第17回)

九条武子が西川一草亭に入門したのは大正6(1917)年、夫との別居生活7年目の時である。当時29歳、仏教婦人会本部長としての公務に励みながら芸事にも熱心に取り組んだようだ。子どもの時から茶道、琴、短歌、謡曲などを学んでいるが、この頃は新しい師匠に師事している。大正5年に短歌の佐佐木信綱、大正6年頃には日本画の上村松園、そして一草亭である。
短歌の場合、西本願寺は宮中御歌所と親交があり、彼女もまた御歌所派、すなわち旧派の歌人に師事した。だが、別居時代に師匠として選んだ佐佐木信綱は新派である。この人選は武子自身の判断だったと思われる。
信綱は短歌結社「竹柏会(ちくはくかい)」を主宰して『心の花』を発行し、『明星』の与謝野鉄幹らと同様、明治の短歌革新運動の一翼を担った。ただし新派といっても穏健だったし、優秀な国文学者でもあった。たった13歳で東京帝大古典科に入学し17歳で卒業という、今の私たちには訳の分からない学歴がある。神童であったことは間違いなく、大成して第1回文化勲章を受章した。
おまけに軍歌「水師営の会見」、唱歌「夏は来ぬ」の作詞がある。後者は、〈 卯の花の匂う垣根に・・・ 〉という有名な歌詞で、いまでもよく歌われている。
一草亭は「去風流」よりも「去風洞」という言葉を好んで使った。流派色を薄めた言葉であり、結社とか同人の集まりといったものをイメージしていたのではないだろうか。実はこの去風洞(去風流)と信綱の竹柏会がよく似ているのだ。ともに多くの上流女性が門弟になっていたのである。明治41年に森鷗外主宰の歌会に参加した石川啄木は、この歌会で信綱に初めて会った。その印象を日記に〈 信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くあるのも無理がない 〉(注1)と書いている。
えっ千人!と、その数に驚くわけだが、一草亭の門弟だって5百人で、その多くが女性である。そう思えば、千人は盛りすぎだとしても、けっこう現実的な数なのではないか。要するに「竹柏会」は、短歌革新という文化運動的な側面に加えて、芸事(稽古事)の側面も備えていたのである。
孫の佐佐木幸綱は、信綱の収入の主なものは、著書の印税と門人の月謝だったと述べている。門人が〈 持って来た短歌をその場で添削する 〉というから、いけばなの稽古とそうは変わらない。信綱の著書に〈 短歌入門書の類、婦人向けの啓蒙書、少年少女用副読本が少なくない 〉(注2)のも、お稽古事という背景があってのことだろう。
また、竹柏会は、毎年1回ほど大会(親睦会)を開き、著名人の講演のあと、余興として長唄や踊り、手品、模擬店、園遊会などがあった(図1)。信綱は、堅苦しいイメージであり、実際にもそうだったのだろうが、意外なほど硬軟をあわせもっていたようだ。
『心の花』掲載の明治期の大会記録を見てみると、明治32年開催の第1回の参加者は約180人、その後は200~300人。男女比率は調べていないが、どちらかといえば女性の方が多いという感じである。まだ未調査だが、大正期にはさらに女性の比率は増えていった可能性がある。
去風洞と竹柏会との基本的な相違点はどうか。分野が違うので安易に比較できないということはある。また、竹柏会の創立は明治31年で、一草亭の家元継承より20年ほど前である。それだけに上流女性の参入の時期も早かったと思われる。だから比較が難しいのであるが、決定的な相違は門弟の自立と活躍にある。
竹柏会は、優れた男性歌人を輩出して重要な役割を果たした。女性歌人も同様であり、大塚楠緒子、柳原白蓮、九条武子、その他数多くの女性が門下から羽ばたいている。
1ページをまるごと使って〈 本誌は 畏くも 天皇陛下 皇后陛下 皇太子殿下 御覧を賜ふの栄を得たり 〉と大書する雑誌である。それでいて、スキャンダル予備軍の女性たちの短歌を掲載し、「心の花叢書」として発行すると、見事な大スキャンダル。彼女らをプロデュースした信綱という人は、保守なのか、穏健なのか、はたまた過激なのか。
なお、今日まで続く『心の花』には俵万智がいて、今でも女性歌人を輩出する力を保っているかのようである。
では去風洞の門弟の自立と活躍はどうなのだろうか。結論は〈不明〉と言うほかない。九条武子についても、今のところ、ちゃんとした作品写真が見つからないし、彼女の花についてのまともな批評がない。
歌集『金鈴』の方は、大量に出回り、与謝野晶子や山川菊栄らの手厳しい批評を受けた。そしてそこを通り抜けることで作品が社会化されていったわけである。残念ながら去風洞(というよりいけばな界全体にだが)門下の女性が飛び立つ姿は見られない。流派内のお稽古事の範囲内に収まっている。なぜなのか、竹柏会と共通点があるだけに、この相違点がおおいに気になる。
(注1)『石川啄木全集 第5巻』筑摩書房、1978年刊。
(注2)佐佐木幸綱『佐佐木信綱』桜楓社、1982年刊。
(図1)明治42年に開催された竹柏会第12回大会、この時は2百数十人が参加。(出典は、『心の花』第13巻第5号)
🔴「憂愁の麗夫人」とは真逆の人物像
(初出「日本女性新聞」2015/12/1 第18回)

九条武子の花については資料が少なく、多くを想像で補うほかない。だから今回は仮説の仮説、とはいえ一草亭の武子評を参考にしながらの仮説である。
一草亭と武子の師弟関係は大変良好だった。津田青楓によると〈 兄キと武子さんは話があったのかよく出かけたようだ。それを横から母が皮肉って《九条さん、九条さんてなんや。同じ人間やないか》とやっつけて 〉いたという(注1)。一草亭は武子と打ち解けた関係になり、武子の外向けの顔ではない、本来の姿を観察することができた。そして〈 夫人には男の様な雄々しい気質があった 〉ことを見抜いて、〈 女の書生 〉〈 女らしいのはただ外観だけだった 〉(注2)と語る。世間の評判「憂愁の麗夫人」とは真逆の人物像が浮かび上がる。
おそらくこれがスッピンの九条武子であり、『金鈴』と同様、世間は彼女を誤読したのである。もちろん彼女自身が世間の望む役柄を演じていたという面もある。なお、武子の親友白蓮も同様な感想を語っており、一草亭の観察は的確だったと思われる。
武子の花に一草亭は意外なほど厳しい見方をしている。先ほどの人物評に続いて〈 夫人は正直にいうと挿花はあまり上手な方ではなかった 〉と語る。雄々しい気質が一枝の花に思いを込めることには向いていなくて、もっと大きな手荒な仕事をぐんぐんやっていくことの方が得意だった、と。武子死去後の回想のためか、わりに遠慮なく語っている。雄々しい気質が災いして繊細な花の処置に至らず、粗雑さが見えてしまったということなのだろうか。
しかし、実は武子には武子なりの主張があった。入門から2年後の大正8年、『心の花』に次のようなことを書いている。ある稽古日、その時は自分で自由にいけてから一草亭に見てもらう稽古だった。岩柳に真紅の椿を根〆にいけたのを見てもらった。ところが〈 おしいと思ってのこした可愛らしい椿の蕾を無残に剪刀をお入れになった 〉。これには彼女はおおいに不満だった。〈 なるほど形は引き立って勢いのあるように見える。けれども落とされた椿はやっぱり惜しかった 〉のである(注3)。
これだけしか書かれていないので、やはり仮説の仮説を立てるほかないが、一草亭が何を狙って剪刀を入れたかを理解した上で椿の蕾に執着していることが分かる。いけばな以前の、自然の花そのものへの愛情が深かったのであろう。
武子は稽古を楽しんだし、花会にも熱心だった。伏見の西本願寺別荘「三夜荘」で開かれた「源氏五四帖花会」や、築地西本願寺で行われた東京支部の研究会などでは幹事を務めた(図1)。
武子はたいへん手早い人で、自ら会場に毛せんを敷いたり、花器を運んだり、物事をずんずん進めたという。気配りや面倒見もよかったようだ。武子に誘われて入門した渡辺伯爵後室(未亡人)の渡辺登米子によると、〈 はじめの数か月はお稽古の夕方きっと電話をかけて下さって《あなたのお花は今日はなに、私のは口なしの大輪よ》などと 〉優しく励まされたという(注4)。
武子にとって歌と花は違う意味をもっていたように思われる。短歌は彼女の密かな苦悶の表出という一面をもつ、すなわち表現。花の方はもっと素直な楽しみという感じであり、この場合は芸事。ともに彼女の人生に必要なものだったのである。
(注1)津田青楓「月報瓶史1 西川一草亭評伝」復刻『瓶史』6巻(昭和10年号)瓢箪堂、1974年刊の付録月報。
(注2)西川一草亭「九条武子夫人の入門」『風流生活』第一書房、1932年刊。
(注3)九条武子「裸人形」(籠谷眞智子『九条武子』淡交社、2002年刊に所収、初出は『『心の花』1919年6月1日号)
(注4)渡辺登米子「九条夫人追悼花会の記」『瓶史』1935年1月改題号(去風洞刊の瓢箪堂復刻版)。
(図1)去風流東京支部の研究会。(出典は工藤昌伸『日本いけばな文化史3』同朋舎出版、1993年刊。初出『婦人画報』大正10年8月号)。
🔴社会活動に私財、自分の入院費さえなくて
(初出「日本女性新聞」2015/12/15 第19回)

身分や地位があり、時には拝まれることさえある九条武子だが、それを空しいと自覚していた。そして〈 この身これ尊くあるか否あらず額づく人を尊しと思ふ 〉と詠む。尊いのは自分ではなく、自分を拝む人々の方だと。ただ『金鈴』出版の頃はこの自覚以上に進むことがなかった。
そうした武子を与謝野晶子は『金鈴』評で叱咤する。〈 著者の生活の態度に弱い所があり、中途半端な所があり、妥協的な所があります。一言にして言えば、自己を愛することが足りません 〉。さらに〈 歌は要するに生活 〉と言い切った(注1)。
与謝野晶子は堺の老舗菓子商「駿河屋」のお嬢さまだった。武子ほどではないにしても、外出には女中が付き従うような家柄なのである。それが家を捨てて上京し、略奪婚に近い形で与謝野鉄幹と結ばれ、12人もの子を産み、定職のなかった時期の鉄幹を経済的にも支えたのである。晶子からすれば、武子の弱さ、半端さ、妥協は見過ごすことができないものだったと思われる。
しかし武子は成長する。武子の立場を生かした、武子にしかできない運命的な仕事に乗り出すのである。きっかけは大正12(1923)年9月1日の関東大震災であった。彼女は西本願寺築地別院で被災し、猛火の中をどうにか逃げのびた。『金鈴』以後の短歌7百首や愛用した品々を焼失し、「火宅無常」に思い至り、これまでの自身の迷いを断ち切った。そして被災した人々への奉仕へとひた走る。
西本願寺救済事業の児童愛護班を率いて、焼け出された子どもたちを救済した。あるいは、本所緑町に設置された診療所、これはのちの「あそか病院」の前身だが、この診療所への西本願寺の援助が打ち切られたので資金調達に奔走する。さらに保護少女たちの教育感化施設「六華園」の初代園長としての活動もある。
大正14年には本所や深川などの生活困窮者への歳末無料戸別診療を開始している。病人のいる家々を次々と訪ねる、当時としては画期的な社会活動であった。極貧集落の病人を訪問し、武子はエプロンや看護服を着て働いた。そして彼女の身分や人脈をフルに活用して資金を調達、それでも足りなくて武子個人のお金も注いだ。昭和2年の歳末診療では施療を3千人以上おこない、施薬は1万人を超えたという。
この時の無理がたたったのか、武子は翌年1月に病で倒れる。随筆集『無憂華(むゆうげ)』が発売されて大ベストセラーとなった頃なので、相当な印税が入っていたのだが、すべて歳末診療に注ぎ込んでいた。
いわゆる慈善の次元ではない、だから自分の入院費さえなくて、知人に借金を申し込んでいる。当時は貴婦人の道楽とか売名行為といった批判もあったが、そんなものではなかった。かつての与謝野晶子の叱咤に応える生き方、しかも九条武子ならではの生き方がここにはある。
2月に永眠、満40歳。弱者救済のための社会活動に本気で取り組んだ稀有な女性の早すぎる死であった。
柳原白蓮は言う。〈 明治、大正、昭和時代の女性として、特殊な光輝を残していられるその最大なお方は実にこの武子夫人 〉ではないかと(注2)。
(注1)与謝野晶子「九条武子夫人の歌集『金鈴』を読みて」『婦人公論』第5年第9号、1920年9月刊。
(注2)柳原燁子「日本女性列伝 九条武子夫人」『婦人公論』1935年1月号。
(図1)診療所前、スタッフと。(出典は、末永文子『まぼろしの柱ありけり 九条武子の生涯』昭和出版、1986年刊)。
(花女06 |九条武子、弱者救済の社会活動家へ おわり)
