アドラー心理学「課題の分離」のお手本を見つけた / 『かもめ食堂』 『嫌われる勇気』
私が人生の師とする本は、岸見一郎・古賀史健による共著『嫌われる勇気』とその続編の『幸せになる勇気』だ。20代のうちにこの本に出会えて本当にラッキーだったと思う。
もちろん、難しすぎてまだ完全に理解はできていないし、実践も全然できていない。
でも、「迷ったときや悩んだときにこの本を開けば必ず解決のヒントが見つかる」ということだけは分かっている。それだけでもう、とてつもなく心強い。心の駆け込み寺があるようなものだ。
一生売る気はないので、解釈を書き込んだり蛍光ペンを引いたり、自分用にどんどんカスタマイズしている。
アドラー心理学の中で、生活に取り入れて実践できているのは「課題の分離」だ。下記の投稿でも少し書いた。
まず、アドラー心理学では、「すべての悩みは対人関係の悩みである」という前提がある。
『嫌われる勇気』の中では、「課題の分離」についてこのように説明している。すべて哲人と青年の議論形式で書かれている。
哲人 われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年 分離して、どうするのです?
哲人 他者の課題には踏み込まない、それだけです。
青年 ……それだけ、ですか?
哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーーによって引き起こされます。
(中略)
哲人 誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
哲人 他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を苦しいものにしてしまいます。もしも人生に悩み苦しんでいるとしたらーーその悩みは対人関係なのですからーーまずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。
哲人 自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。
青年 相手が自分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。先生はそうおっしゃるのですか?
私の言葉で変換すると、「他人が私をどう思うかはその人の自由だし、私にはコントロールできない範囲だから、必要以上に考えても無駄。自分で変えられる部分にだけフォーカスしよう」って感じ。
最初こそ、自分に思い込ませるように自己暗示をかけていた感もあったけれど、最近は結構ナチュラルにそう思えるようになっている気がする。
人がどう思うかを気にしすぎるのって、本人的には優しさや気遣いで周りを思いやってるつもりなんだけど、実は「自分は人からどう思われているか?」ってことばかりを気にしていて、結局は他者を通して自分のことしか見てない。意識のベクトルが自分にばかり向いてると思う。それって本当の優しさかな?
逆に、ベクトルが他人に向いている人は、「私はどう思われているか?」ではなくて「この人は何をしたら喜ぶか?何を求めているか?」って相手にガンガン興味を持っている気がする。自分のことはどうでもよくて、相手のことだけをまっすぐ見ているというか…相手の幸せが第一で、自分の評価は二の次っていうか…だからといって自己犠牲というわけでもなく…
この辺、いつもうまく言葉にできない。宿題として持ち帰る。
本題。
少し前に、群ようこの『かもめ食堂』について書いたのだが、この作品の中でアドラー心理学の「課題の分離」のお手本となる人を発見したので記録しておく。
(こうやって、一見無関係な本同士の共通項を発見するのが私はめちゃくちゃ楽しい)
フィンランドでひとり、「かもめ食堂」を開いた主人公サチエ。
さっぱりした人柄で、うまくいかなくても場所や人のせいにもせず、いつも明るくまじめに、好きなことをしている。
お店を手伝ってくれたマサコが日本に帰ると言ったときは、「さびしくなりますね」と言いながらも、サチエは心の中でこう思っていた。
でも彼女の人生は彼女自身が決めることだから、自分は無理強いできない。
ここ!まさに課題の分離だと思う!
決めるのは彼女なんだから、そこに口出しはできない。「さみしくなる」という自分の気持ちだけ伝え、「だから行かないで」とか「もう少しくらい良いじゃないですか」とか、そういう余計なことは言わない。それはマサコの課題だから、踏み込まない。
そして、夫に出て行かれて落ち込んでいたおばさんも、立ち直り方がアドラーだった。
「私、待つことにしたの」
リーサおばさんは明るくいった。
「待つっていっても、嘆き悲しんでいる悲劇のヒロインじゃないのよ。離婚したければしてやるし、戻ってきたければ受け入れてやる。ハゲと知り合ったときからのことを、ずっと考えていたの。私はいつも主導権を握ってたの。それを忘れてたわ。それをこんなことで放棄するわけにはいかないって気がついたの。ふさぎ込んでいても何もはじまらないし。(中略)仕事にも行ってるわ。今は、ハゲ、好きなようにしろっていう感じよ」
「主導権は私が握る」
おばさんの決断は、アドラー心理学でいうところの『対人関係のカードは「わたし」が握っている』という部分とまさに同じだった。
たとえ向こうに関係修復の意思がなくても一向にかまわない。問題はわたしが決心するかどうかであって、対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのです。
(中略)
多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っています。だからこそ「あの人は自分のことをどう思っているんだろう?」と気になるし、他者の希望を満たすような生き方をしてしまう。でも、課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っていることに気がつくでしょう。
(中略)
わたしは「父を変えるため」に変わったのではありません。それは他者を操作しようとする、誤った考えです。
わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。これも課題の分離ですね。
ここでも結局は「課題の分離」が関係してくる。
私が過去に、自分に冷たい人のことを「どう思われようがもうどうでもいい」と思えるようになったのは、対人関係のカードを相手ではなく自分が握っていることに気づけたからだったんだ。納得。
アドラーからはちょっとズレるが、前回の投稿で私はこう書いた。少し気づいたことがあるのでここに追記したい。
みんな、おいしそうなごはん目当てにかもめ食堂に集まったのではない。サチエの明るさに自然と惹かれて集まったのだ。
みんな、サチエの明るさに惹かれて集まったのは本当だとは思う。でも、かもめ食堂においしそうなごはんがあることも事実で、サチエが料理に自信があることも事実。
前回の書き方だと「料理の味は関係なく、サチエの人柄だけで人が集まった」みたいな感じに見えたのでちょっと追記しておく。
サチエは、料理の腕に自信がある。
「外国で作ればいいじゃない。何が何でも日本でやる必要なんかないもん」
気分が明るくなってきた。幸い、各国の料理を習ったおかげで、どこへ行ってもそれなりの料理を作れる自信はある。
「そうか、そうか、あっはっは」
やるべき努力をして、ちゃんと自分の料理に自信があるからこそ、こうやってどっしりと構えていられる。
「何とかなりますよ。まじめにやっていれば。どんな店だって最初っから、どーんと人が入るわけじゃありません。正直にやっていれば、ちゃんとどうにかなるんです」
そして、ちょっとずつだが結果も出ている。
たしかに店はいつも大繁盛しているわけではない。けれども、店で出しているどんなものであっても、コーヒーであっても紅茶であっても、パンであってもお菓子であっても、それを口にいれた人たちは、必ずまた来てくれている、その人が友達を誘って来てくれたりして、少しずつ客は増えているのは間違いなかった。それは店に対する信頼だった。派手な宣伝も広告も打ってないけれども、近所の人たちが来てくれる。
自分の課題だけに集中し、やるべき努力をし、やりたいことをまじめに正直にやっているから、自分に自信がある。そして、自分ではどうしようもない他人の課題には踏み込まない。
ミドリはこう呟いていたけれど、同感です。
ごてごてせずすっきりとしたあのシンプルな店を思い出して、サチエの心持ちがとてもよくわかった。もっと華々しく宣伝の手を打つことだってできるのに、あんなにひっそりと仕事をしている。
「ついていきます。私は」
サチエさんの姿は、アドラーの教えにピッタリハマっていた。かっこいい人とは、こういう人だ。
私は「大丈夫!なんとかなるさ!」と言う前に
ちゃんとやるべきことをやれているだろうか?
努力から逃げるための、都合の良い言葉として使っていないだろうか?
サチエさんのように、口だけじゃなく、ちゃんと結果も出せる人になりたい。ならなければならない。
努力することは、ほかの誰でもなく私の課題だから。
↓後日、持ち帰った宿題について書いた。
