三番【熱の残り香】
これは、誰もいなくなった図書館のお話。
ちょっと未来で、でもそれほど遠くない今。 図書館には数名の司書がいるばかり。
一人の司書が、本棚を整理している。
ふと一列の本棚で足を止める。 (ここは、さっきまで長い時間少女が読んでいた列だわ)
貪るように本を読む少女を、司書は覚えていた。 ありとあらゆる人が訪れる場所で、ひときわ熱を帯びていた、少女。
そのとき──ふわりと、「熱」のようなものを感じた。 体感ではない。五感のどれでもない。けれど確かに、空気の中に“熱の残り香”があった。
くるりと司書は周りを見渡す。 静寂に包まれ、人の気配はない。 他の司書たちも、今はそれぞれ別の作業中。
「あ……」
思わず、声が出た。 仕事柄、あまり声を出すことのない司書が──無意識に漏らした、驚きのような、懐かしさのような声。
口元を手で押さえながら、一冊の本をとる。
これだ。 この本から、香ってくる。熱い、熱の香りが。
それは、消え入りそうでいて、しかし確かに力強く、 まるで「生きた誰か」の想いの残り火のように、私の内側を灯す。
そっとページをひらく。──刹那。
司書は感じた。猛烈な熱を。 本来、紙という素材が帯びるはずのないもの。 でも、確かに──そこに“熱”があった。
それは、「旅」の本だった。 短編集。どこにでもありそうで、けれどどこにも存在しない、命を削って綴られたような物語たち。
─読んでみたい。いや、読まなくちゃ。 理性よりも先に、司書の内側がそう叫んでいた。
でも、仕事中──そうだ、仕事中。 今までこんなことをしたことはない。 真面目に、静かに、誰かの本を支える側に徹してきた。
だけど、今は── この図書館には、他に誰もいない。
誰にも見られない。 読んだって、きっと大丈夫。
気付けば少女が座っていた席に腰掛けていた。 まるで魔法の椅子のように、そこに座った瞬間、好奇心が弾ける。 読まずにはいられない。もう、止まらない。
「救えなかった旅人」── 「エゴと切り捨てられた心」──
司書は読んだ。 一文字一文字、脳に刻むように。 脳髄が熱い。 この熱こそが、残っていた“香り”の正体なのだ。
あの少女は、何を感じたのだろう。 「結果論」という言葉を読んだとき。 「救えなかった命」に触れたとき。
あの少女は、帰っていった。 もう、この図書館にはいない。 だから──もう聞くことはできない。
──ねぇ、どこまで読んだの? ──またここに来るの? ──もう、旅立ってしまったの?
気付けば、心の中で問いかけていた。 まるで、旅人の背中を見送るような──そんな想いだった。
ここは、図書館。 年々、電子書籍が主流になっていく。 紙の本を手に取る人は、少しずつ減っていく。
私は、司書。 今日も来館者の手続きをし、本を片付ける。
結局、私は── 旅人にも、遭難者にも、ウサギにもなれなかった。
ただ、物語の“その先”を見守る者として、ここにいる。 私は、選んだのだ。 数多の物語に囲まれ、それを手に取る人たちの、傍観者であることを。
でも── だからこそ思う。
いつか誰かが、 この物語の続きを読みに来てくれることを。
私が感じた、この“熱の残り香”を、 また、誰かが見つけてくれることを。
その時、その誰かは感じてくれるだろうか。 私の"熱の残り香"を
──そんな祈りだけが、今の私の自由なのかもしれない。
その時、その誰かは──
私が感じた、この“熱”を、
ちゃんと感じ取ってくれるだろうか。
それとも、また別の祈りを、
このページに刻んでいくのだろうか。
私は司書。
誰かがこの本を手に取るその日まで、
この熱を、そっとここに置いておく。
語らずに、ただ見守ること。
それが、私の選んだ“自由”だから。
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とても、とても嬉しく思います。