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UFOとシミュレーション仮説②――彼らはどこから見ているのか

昨日、UFO現象とシミュレーション仮説について書いた。

もし僕たちの世界が、より高度な知的存在によって観測されているシミュレーション世界だとしたら――

では、その「観測者の視点」はどこにあるのか。

この問いが、昨日の記事を書き終えたあと、漠然と浮かんだ。

「彼ら」は、どこから僕たちを見ているのだろう。

外側の宇宙なのか。

高次元の領域なのか。

それとも、まったく別の場所なのか。

そんなことを考えているうちに、一つの考えが浮かんできた。

もしかすると、その視点は、すでに僕たちの意識の中に存在しているのではないか。

僕たちは日常の中で、不思議な体験をしている。

怒っている自分がいる。

しかし同時に、「自分はいま怒っている」と眺めている自分もいる。

恐怖を感じている自分がいる。

その一方で、「自分はいま恐れている」と静かに観測している自分もいる。

鬱々としている自分を、どこかクールに見つめている自分がいる。

体験している自分と、その体験を見つめている自分。

僕たちの意識には、二重の構造があるように思える。

脳の特定の場所に、「ここが観測者領域」などとは、聞いたことはない。

しかし、その視点は確かに存在している。

シミュレーション仮説では、観測者は通常、この世界の「外側」にいると考えられる。

けれど、もし彼らの最大の関心事が、生命の行動ではなく、「意識そのもの」と、その変化にあるのだとしたらどうだろう。

観測点は、外側にあるよりも、むしろ意識の内側に埋め込まれているほうが自然なのではないか。

もちろん、これは証明できる話ではない。

一つの思考実験にすぎない。

しかし、もしそう考えるなら、自分を客観視するあの静かな視点は、「彼ら」の視点と重なっている可能性がある。

怒りを見つめる。

恐怖を見つめる。

欲望を見つめる。

記憶を見つめる。

未来への不安を見つめる。

観測者とは、僕の外側にいる誰かというより、既に僕の内側にある「もう一つの視点」なのかもしれない。

もし観測点が一人ひとりの意識の中にあるのだとしたら、「彼ら」というよりも、「彼」と呼ぶほうが近いのかもしれない。

そしてその彼は、僕ではない。

しかし完全な他者でもない。

僕という生命の奥底で、静かに僕を見つめ続けている存在。

だから「彼」と呼ぶこともできるし、「もう一人の自分」と呼ぶこともできる。

もし、この仮説が少しでも正しいのだとしたら、宗教が語ってきたある感覚にも、新しい見方が生まれるかもしれない。

「神は我とともにあり」。

この言葉は、単に外側から神が見守っているという意味だけではないのかもしれない。

自分を見つめている、その静かな観測者の視点。

もしかすると、人類が古くから「神は我とともにあり」と表現してきた感覚は、このような意識体験と、どこかで重なっているのかもしれない。

もちろん、これは宗教を説明する理論ではない。

僕自身の一つの想像にすぎない。

そして、昨日の記事の最後に書いた言葉も、少し意味が変わってくる。

「彼らを面白いと思わせる人間であること。」

そう書いた。

しかし、もし彼らの視点が僕の内側にあるのだとしたら、本当に驚かせたい相手は外側というよりも、

僕の中にいる観測者なのかもしれない。

だから、自分が自分に驚く。

自分でも予測できなかった自分に出会う。

そして、自分自身を「面白い」と思える。

その瞬間こそが、意識の進化なのではないか。

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「虚空門GATE」監督 小路谷秀樹 Hideki Koujitani 『ヒグマカルマ』は現在も北海道・東北で取材と撮影を続けています。 もし活動を応援していただける方がいましたら、サポートいただけると制作継続の力になります。 いただいた支援は、移動費・撮影費として大切に使わせていただきます。